2013年12月24日火曜日

アテネからチュニジアがみえる

クリスマスイブのアテネ。表参道や青山の町並みに似ているKolonakiやPlaka 地区では買物や食事をする地元の人々で溢れ返っている。各店舗にはポインセチアの花が飾られ、レストランではアコーディオンとタンバリンを持った二人組がジングルベルを奏でている。夕方に近づくにつれ、教会や樹木に飾られたイルミネーションにより幻想的な雰囲気が醸し出されている。

この国はギリシャ正教を母体としたキリスト教国であるが、クリスマスの街の雰囲気はアメリカや他のヨーロッパ国々とあまり変わらない。イスラム国のチュニジアから訪問した私はその異なる雰囲気を意識せざるを得ない。

この地区から歩いて10分程度のところに、オリンピアのゼウス神殿、そしてハドリアヌス門がある。そして、その門を通して、アクロポリスの高台にあるパルテノン神殿が映し出されている。昼間にこの地域に訪問したが、この国はかつては多神教であるギリシャ神話を信仰していたことがわかる。

現在は柱廊とわずかな天井しか残されていないそのゼウス神殿であるが、かつては古代ギリシャで最大の神殿であったという。その壮大さには畏敬の念さえ感じることができる。その神殿は紀元前500年ごろに工事が開始されたが、最終的にはローマ皇帝のハドリアヌスがAD129に完工させたといわれている。ギリシャをこよなく愛したハドリアヌス帝は自らを神格化する為に、金と象牙でつくられた巨大なゼウス像に隣接するかたちで、自らの像を並べたという。

思えば不思議なものである。かつてはギリシャもチュニジアもローマ帝国の一部であった。アクロポリスやゼウス神殿の建物は、チュニジアのドゥッガやウティナの遺跡と酷似している。チュニジア、イタリア、そしてギリシャの遺跡を訪問すると、かつては同じローマ帝国の域内であったことが実感できる。

さて、このハドリアヌス帝であるが、在位中は平和な時代を築き上げ、数々の大型なインフラを推し進めた。チュニジアにおいてもザグアンからカルタゴまで132kmの水道橋を推進し、そして、マルガの貯水場を築いた。カルタゴではアントニヌス帝が完工した共同浴場が有名であるが、ハドリアヌス帝が水のインフラを構築しなければ、この実現はありえなかった。

その後、AD395年にローマ帝国は東西に分裂し、ギリシャもチュニジアも東ローマ帝国に属すことになる。そして、チュニジアは7世紀にはイスラム教徒であるアラブ人に征服され、イスラム教国として歩みを始める。異なるイスラム王朝による統治が続いた後、1574年にオスマン帝国によって征服され、その後のベイによる統治も含め、オスマン帝国の影響下に300年おかれた。一方でギリシャは、1453年に、東ローマ帝国がオスマン帝国によって滅ぼされた後、400年近くオスマン帝国による統治が続いた。

両国はオスマン帝国の影響下に置かれた歴史を共有するが、チュニジアがイスラム教国として地位を確立したのに対して、ギリシャはキリスト教からイスラム教に改宗することはなかったという。その理由としては非イスラム教徒には人頭税が課税されていた為、大幅な税収の減少を恐れたオスマントルコがそれを望まなかったという。

かつては地中海諸国は同じ国として存在しており、共通の文化を擁していたが、現在、国の形態と文化は大きく異なり、ヨーロッパと北アフリカは分断されているようにさえ映る。それは、海という自然境界によって分離されているというよりは、宗教と国の運営方法によるものといってもよいのではなかろうか。この度、北アフリカからヨーロッパに訪問して、かつての共通点と、現在の相違点の差異を強く感じ、この20世紀の間に時代が逆行したのではと思ったほどである。

【参考資料】
http://www.athensinfoguide.com/wtsarch.htm
http://en.wikipedia.org/wiki/Temple_of_Zeus,_Olympia

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