2013年3月20日水曜日

チュニジアの独立記念日

本日3月20日は、チュニジアがフランスから独立してから57年目の『独立記念日』である。

チュニジアは1881年から1956年の間にフランスの『保護領』であった。その間、フサイン朝のベイと呼ばれる君主は傀儡にすぎず、事実上の統治はフランス人総監が行い、さらに政府および地方自治の要職もフランス人が占めたようだ。

1956年にフランス政府は世界の独立運動の気運の中で、ムハンマド8世アル・アミーンを国王にする条件でチュニジアの独立を受け入れた。初代首相にはハビブ・ブルギーバが選ばれ、『チュニジア王国』が成立し、独立を達成した。しかし、ブルギーバは翌年の1957年には王政を廃止し、大統領制を基盤とした『チュニジア共和国』を誕生させたという。

フランスから独立してから57年目の月日が経つが、チュニジアは独自の道を歩んでいるのであろうか。客観的に見て、フランスのチュニジアに対する影響力は未だに絶大であると映る。経済においては、最大の輸出先は未だにフランスである。アメリカに対する同年の輸出は1.5%に過ぎない。観光もリビア人を除いて未だにフランス人が最大の観光客であるという。社会の基盤である高等教育の大部分はフランス語で授業が行われており、多くのチュニジア人がフランスに留学にするという話を聞く。JOSHUAPROJECT によると44万人のチュニジア人がフランスに住んでいるようだ。

今日においても、チュニジアの社会においては、フランスに未だに憧れを抱いており、如何にフランス化しているということが、社会的なステータスであるということがいえるのではなかろうか。
 
ちなみに、チュニジアでは多くの国民がフランス語を話すが、母国語並みにフランス語を話す人はそう多くはない。また、チュニジア人の多くはフランス語はRの音が巻き舌であり、アラビア語風の発音である。本来のフランス語のRの発音は痰を吐き出すような音と言われているが、チュニジア人の上流階級の多くはRの音を軽く発音するような綺麗なフランス語を操る。特に、女性にとってはその洗練された発音のフランス語を話すことがステータスであるようだ。大抵、その層の人たちはフランスに留学したことがあるか、チュニジアでもフレンチスクールに行っていた人達が多いというのが私の印象である。

ハビブ・ブルギーバも少年期をチュニジアにおいてフレンチスクールに通い、その後20年間、フランスに住んだ所謂フランス化したチュニジア人であると言えるであろう。男女の平等や、教育の普及をもたらしたのはフランスの思想の影響を受けた証ということであろうか。

しかし、チュニジア人がフランス人に対して抱く感情は、植民地において“支配された側”が“支配した側”に対して感じる『憎愛』とも言えるかもしれない。上述した憧れやステータスを感じる一方で、憎しみも深いようだ。その『憎』の方で象徴する出来事があった。今年、1月17日にフランスのテレビ局であるFrance2が放送した特別レポート『サラフィストの攻撃を受けるチュニジア』が、チュニジア人の著名人や、知識人、更にはインターネット利用者の間でその逆鱗に触れたようだ。その番組はサラフィストにおける数々の行為がチュニジアの社会の安定や、観光業に脅威を与えていると非難したものであるが、 チュニジア人より革命後の姿が著しく歪曲化され、誇張されていると酷評されている。

その怒りはダウンタウンのフランス大使館近くにてデモにまで発展したという。偶々、フランス人の友人が近くを通りかかったというが、身元がばれないようにその現場を急いで離れたという。そのデモはフランス人に対して殺気に満ち溢れていたようだ。彼の親はイベリア半島出身であり、彼は典型的なフランス人に見えずに助かったと吐露していた。
 
本日のブルギバ通りの時計台
(右側は内務省、鉄線で包囲)
 チュニジアにおいて、独立後の1957から2011年まで2代続いたハビブ・ブルギーバ並びにベン・アリー政権はフランスの影響を多大に受けた政権であったと言えよう。あくまで個人的な見解であるが、2011年1月の革命とは、チュニジア人としての自らのアイデンティティーを求めた第2の独立運動という意味合いもあったのではなかろうか。

第2の独立運動において、チュニジア人は自らのアイデンティーを確立し、国家の繁栄を導くことができるのであろうか。そして、現在の政権は1957年の独立時と同じような重い責任を感じているだろうか。チュニジアの将来の繁栄は、今年の政治的な決断に大いにかかっている。これが成功裡に収める事ができれば、アラブにおける初の無血革命の成功例を世界に示すことができるだろう。

本日のブルギバ通り
(乱闘騒ぎが数か所であった)
追記:本日のハビブ・ブルギーバ通りは、独立記念を祝って様々な主張をする団体で溢れかえっていた。フランスの対チュニジア外交に反対するもの、労働者、学生等で一杯であった。大声でスピーチするもの、主義主張を交えた歌を歌うもの。メディアのインタビューを受けるもの等多様であった。数か所で乱闘騒ぎになったりして心配したが、突然雨が降り出して、その騒ぎも収まったようだ。暴力には反対であるが、チュニジアは現在、議論をする土壌が醸成されつつあるようだ。これが良い方向の民主主義に進むことを祈っている。
 

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