2013年4月1日月曜日

カルタゴの都市『ケルクワン』  

カルタゴの建国は紀元前814年である。そして、このフェニキア人による国家は瞬く間に、東はシドラ湾(リビア)から、西はスペイン海岸、パレアレス諸島、サルデニア島、シチリア島を含む地中海全域を支配下に収めた。その統治スタイルは武力で制圧をすることを好まず、商業と文化、そして外交の力で推し進められたと言われている。自国の民衆に対しても寛大な自治権を与えていたようだ。

その栄華を咲かせたカルタゴであるがあまり資料が残されていない。紀元前146年のカルタゴの滅亡と共にローマ帝国に全て焼き払われた為である。また、このフェニキア人の町は徹底的に破壊され、その上にローマ、ビザンチン帝国による都市に塗り替えられていった。

しかし、わずかであるがその痕跡は残されているようだ。カルタゴの海岸沿いにあるマゴン地区や、サラムボ地区にある遺跡にはポエニ時代の面影を垣間見れることができる。トフェの墓場には『タニト女神』と、『バール・ハモン神』というふたつの最高神が祀られている。更に、ボン岬半島にあるケルクアンもその痕跡が残されている数少ない場所である。

ケルクアンは紀元前255の第1次ポエニ戦争時にローマ帝国に破壊された後、(他の都市とは異なり)、ローマ人によって定住が行われず放置されていた。従い、幸いにもポエニ文化の遺跡が残されており、これが当時のフェニキア人の町や住居を知るうえで大変貴重な情報源となっている。

先週末にそのボン岬のケルクアンに行ってきた。ボン岬は首都のチュニスの南東に地中海に突き出している半島であり、実りある豊かな穀倉地帯と自然に恵まれた美しい景観から、古代ローマ人から『最も美しい半島』と呼ばれていたという。

実際に車で半島を一周をしてみたが(右記の赤線がそのルート)、その美しさに感動したと共に、肥沃な土地であることを再認識した。春の訪れとともに緑が深くなってきており、通り道沿いにあるブドウ(ワイン)畑、オリーブ畑、牧場、そして野菜農場は心が洗われる風景ばかりであった。チュニス郊外を朝9時に出発し、ナブール、ケロアン、ケルクアンを回っても夕方の6時に戻れたので、こんなに近くて素晴らしい場所があるのであれば、もっと早く行けば良かったと思ったほどである。

ケルクアン住宅地域の全体像
ケルクアンはボン岬半島のボン岬とケリビアの中間に位置しており、地中海を隔ててシシリー島から約120KM程度のところにある。もともとベルベル人によって築かれた町であり、Tamezratと呼ばれていた地域であるが、その後、カルタゴの勢力と繁栄によって影響下に置かれたようだ。また、貿易を通じてギリシャ文明との交流もあったことが指摘されている。ネクロポリスから出土された埋葬品からもその関係が判るという。

第1次ポエニ戦争前(BC255)頃に
建設された北の塔
ケルクアンの生活の場は3つの地域に分かれていたようだ。一つは住宅地域、二つ目は公共地域(農園、牧場等)、そして、三つ目はネクロポリス(墓地)である。ネクロポリスはケルクアンの住居から北西1.5KMと少し離れている場所にあるという。

 
訪問したケルクアンの住宅地域は東京ドーム約2個分(約9Ha)の大きさであろうか。現在の住居は土台のみであるが、街路が整理されており、区画整理されている町であることがすぐにわかる。また、この海に面している町は2重の外壁で囲われていたようであり、その外壁の工事並びに北の塔の建設は紀元前255年の第1次ポエニ戦争の前に行われたようだ。 ローマ人の襲撃から防衛する為に準備がされたということであろう。

家の浴槽
現在、住宅地域の1/3程度しか発掘が完了していないようであるが、各家の広さは75㎡~120㎡であり、その住宅地域には300程度の家があったようだ。これらの間取りは、現在のチュニジア人のアパートの規模にそっくりであるが、父親、母親、子供が住むような、家族単位の生活が営まれていたと指摘されている。人口は7人家族と仮定して、2100人前後の住民がいたのでは言われている。またその各家には浴槽があり、日本人と同じく、清潔好きな国民であったようだ。


『タニト』を示した住宅の床
更に、家の床にはカルタゴのトフェにも祀られている『タニト』女神が示されていた。元来、カルタゴを建国したフェニキア人は東方のオリエントから来た民族であり、オリエントで信仰されたアシュタルテ女神と密接な関係があるようである。『タニト』は、ローマ帝国の支配下においてもその信仰は生き延び、現在のチュニジアでも、豪華客船や、タバコの名前をはじめ、町でも至る所で見られる。

ケルクアンは紀元前255年の第1次ポエニ戦争時に破壊され、その後都市自身が消滅している。首都のカルタゴは、第3次ポエニ戦争(BC149~BC146)後、徹底的に破壊され、生き残った5万人のカルタゴ人捕虜は全員奴隷となった。カルタゴに永遠に人も住めず作物をできないように塩がまかれた話は有名である。

その後、ローマ帝国によりカルタゴの首都は再建された。しかしその支配下を経て、現在に至るまで女神『タニト』によるカルタゴの“怨念”が生き残っているということであろうか。やはり女神は怒らせてはいけない。ローマ帝国もその力には及ばなかったようだ。
 
【参考資料】
Kerkouane、 M’hamed Hassine Fantar
Histoire de La Tunisie、Habib Boulares
地球の歩き方 チュニジア
http://en.wikipedia.org/wiki/Tanit

ボン岬にある牧場の風景
 
 

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