2013年4月6日土曜日

第二次世界大戦とチュニジア


本日、ローマ帝国の遺跡で有名なドゥッガに行く途中に突然、洋風の墓地に出くわした。チュニスから南西方向に約30キロメートル離れたマシカルト(Massicault) という所である。興味深かったので、墓地に入ったところ、第二次世界大戦時に戦死したイギリス連邦(コモンウェルス)の戦士が祀られている墓地であることが判った

墓地の中には何人かの訪問者がおり、その一人のアングロサクソン風の初老の紳士が話かけてきた。聞けば、北アフリカ全体のイギリス連邦の墓地を管理しているオーストラリア人であるという。墓地の中に戦争の背景が説明している小さい建物があるというので見てみた。

北部と南部による戦闘。
(右上、赤字が最終戦闘地)
その説明によると、 北アフリカ戦線は1942年11月から1943年5月までに連合国(イギリス連邦、フランスとアメリカ軍)と同盟国(ドイツとイタリア軍)の間で行われた。当時、フランスがドイツに対して降伏していた背景もあり、チュニジアはドイツの支配下に入っていた。北アフリカ戦線における連合国側の目的は地中海へのアクセスを獲得することによって、南欧における戦争に備える為であったようだ。

連合国は1942年の11月8日にアルジェリアとモロッコに上陸を行い、戦闘を開始する。同盟国は苦戦を強いられたが、シシリー島からチュニジアの北部に軍隊を送り応戦をした。

一方で南部では、同盟軍は、エジプトのエルアラメインにて、連合国の第8軍隊に敗北を喫し、リビアを経由してチュニジアの海岸沿いに後退せざるを得なかったようだ。

1943年の4月には同盟軍はチュニジアの北東地域で、連合軍に包囲され、最後の戦いが行われる。戦闘はMassicalt並びに近郊のMejez el-BabやBeja等で行われた。多くのドイツ人やイタリア人が命を落とし、また捕虜になった。

この墓地には1576人のイギリス連邦の戦士が祀られており、多くは20代と30代で命を落とした人達である。ほとんどがイギリス人であるが、カナダ人、オーストラリア人、ニュージーランド人、南アフリカ人、そしてインド人も含まれているという。その内の130人は名前も判っていない戦士である。

墓地をしばらく歩き、各々の墓を見ながら、戦争により若い戦士とその家族の人生が変わってしまったことを考えると沈痛な気持ちになった。しかし、国民を守る為には軍隊は必要であり、従い、それを守ろうとする軍人や戦死した方には最大の敬意を払わなければいけないと思った。

そのオーストラリア人の紳士とは短い間であったが、様々な話をした。第二次世界大戦では日本は敵国であり、オーストラリアのダーウィンで戦闘が行われた話や、日本にも英連邦(コモンウェルス)の墓地があるという話等である。後で調べたところ、日本における英連邦の墓地は横浜にあり、その祀られている人々は戦争の捕虜として日本に連れてこられ亡くなった方達である。

話をしながら、5年前に他界した祖父の事を思い出した。祖父は職業軍人であり、太平洋戦争当初はフィリピンで連合国と戦い、その後に満州に移った。私が子供の頃は太平洋戦争の遺族会の会長をしており、記憶に間違えがなければ、グアムに遺族を引率していた。もう、30年以上前の話である。それを考えれば、イギリス連邦の遺族(子供の世代)も既に70代、80代であり、チュニジアまで訪問するのは体力的に厳しくなってきていると察する。

最後にそのオーストラリア人が、訪問者として記帳してほしいという。戦争が終わって70年近くが経つものの、かつての敵国の人間にも関わらず記帳を許してくれたのは嬉しかった。国家を守ろうとして亡くなった方々に対して敬意を示すのには敵も味方もないということであろう。

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