2013年4月13日土曜日

ローマから”チュニジア”が見える

ユリウス・カエサル
(BC100~BC44)
第3次ポエニ戦争(BC149~BC146)時に徹底的に破壊され、その後100年近く放置がされていた“カルタゴ”の運命はローマ帝国の皇帝『ユリウス・カエサル』という天才と、その天才の後を受け継いだ『アウグストゥス』によって決定したといっても過言ではないだろう。

そのカルタゴの再建について歴史を振り返ってみたい。

カルタゴの再建はBC44に『ユリウス・カエサル』によって決定される。塩野七生が著した『ローマから日本が見える』によると、カエサルの植民都市(コローニア)の建設に対する考え方はある思想に基づいていたようだ。

カエサルが現れる前のローマの定義とは、かつての都市国家ローマの延長にすぎず、視野を広げてもイタリアの半島を超えることはなかった。あくまでイタリア以外の領土は支配の対象としか見ていなかったという。

しかし、カエサルはその概念を根底から覆した。カエサルにとっては“国境”という概念はなく、彼はローマの支配下の地はすべてローマ帝国の一部とみなしたという。カエサルは、ガリアや北イタリアにとどまらず、スペインの原住民の有力者にも『ローマ市民権』を与え、そして、8万人ものローマ市民を属州(欧州)に送り込み、『植民都市(コローニア)』を建設することによって、ローマへの同化、つまり、運命共同体の政策をとったという。ローマは徐々に市民権を拡大し、最終的には解放奴隷にも与えたという。

カエサルはまもなくブルータスに暗殺された為、実際にはカルタゴの再建設はカエサルの養子であるアウグストゥスによって実施される。紀元前29年にアウグストゥスはローマの都市計画に沿った植民地を、ポエニ戦争で崩壊したカルタゴの都市の上に建設する。そして、カエサルの『国境なきローマ』の思想はアウグストゥスに継承され、『パクス・ロマーナ(ローマの平和)』の基盤を築いていった。

アドリアン時代(AD117~138)の
ローマ帝国の街道
まず、ローマ帝国の支配下に入った属州は道路や港の整備が進んだ。その主な理由はローマ帝国の同化政策をとる一方で、ローマ軍隊の俊敏な移動を可能にする為であったという。実際に現在のチュニジアの域内では、カルタゴ・スース間、カルタゴ・ケルビア間(ボン岬半島)、カルタゴ・ドウッガ近郊間、カルタゴ・スキッダ(東アルジェリア)の道がローマ時代に建設された。『すべての道はローマに繫がる』といわれた道路網の一部である。

2世紀になると、大規模なインフラの建設が行われる。ポエニ時代のカルタゴの軍港は、ローマ時代になり輸出港に変貌を遂げる。北アフリカの穀物の生産量は100万トンと言われ、その1/4がこの輸出港からヨーロッパに出荷されたという。その他、オリーブ、豆、ブドウやイチジク等の果物が輸出された。ローマ時代の北アフリカは農業を中心とした豊かな属州であったようだ。アントニヌス帝の公衆浴場をはじめとした水道事業が行われたのもこの頃である。


北アフリカのローマ属州
歴史家のTheodore Mommsenによると、ヌミディア州の東部(カルタゴを除いたほぼ現在のチュニジア)では1/3の人口がローマの退役軍人の子孫であり、ローマと同化政策が推進されたようだ。また、ローマ帝国支配下当初の軍隊はヌミディア州とマウレタニア州(現在の西アルジェリア、北モロッコ)において、28,000人程の規模が駐屯していたが、2世紀頃になると現地の兵士に置き換われていったという。言語は、ラテン語を話す人口が増え、ポエニ語、ベルベル語を話す民族と共に多国籍な社会が構成されたという。また、ローマ人はベルベルの宗教に対して寛容であり、他民族に対しても排他的な措置はとらなかったという。6世紀頃になると、マグレブは完全にローマ化していったようだ。

ローマ劇場
先週末、チュニスから南西100KMにあるドゥッガに訪問した。ドゥッガは北アフリカの最大かつ保存状態が最良のローマ遺跡であり、ローマ帝国の都市全体の雰囲気を感じる事ができる。その姿は言葉では表現できないほど“壮麗(Magnifique)”である。緑が深い周辺の景色も最高であった。昨年の夏にイタリアを10日かけて旅行し、ローマ時代の遺跡を見て回ったが、ドゥッガはローマ帝国の都市そのものであり、まさにチュニジアはローマ帝国の一部であったことも肌で感じた。

標高600mの丘の上の穏やかな気候の中で、この都市を探索しているとかつてのローマ帝国の都市における人々の生活が想像することができる。人々はモザイクで装飾された住宅に住み、多神教の神殿で祈り、共同浴場で体を清め、劇場や闘技場において娯楽を楽しんだに違いない。


フォルム
ドゥッガはアウグストゥス帝(BC27~AD14)の時代にはローマ市民権を保有するものと保有していないものが混在していたが、時と共にローマ化は進んでいったという。マルクス・アウレリウス帝(AD161~AD180)の時代になるとドゥッガはローマ法が付与され、住民はローマの市民権と同様の権利を与えられていったという。

上記の写真はフォルム(集会場)であるが、これはローマ帝国の都市の証である。ここは商業活動、政治・司法の集会、宗教儀式、その他の社会活動が行われる市民生活の上で最も重要なオープン・スペースであった。ここでは喧々諤々様々な議論が行われたのであろう。ローマ帝国においては市民は主権者であり、この市民を主権者とする思想は今日の民主主義における基盤となっている。

かつてのチュニジアには様々な民族の多様性、考え方、宗教を認めながら議論を進めていた土壌が存在した。フォルムの周辺を歩きながら、岐路に立たされているチュニジアの目指す姿が過去の自分達にあるのではないかと思った次第である。

【参考資料】
『ローマから日本が見える』、塩野七生
DUGGA,Mustapha Khanoussi
http://www.ushistory.org/civ/6a.asp
http://www.unrv.com/provinces/africa.php
http://en.wikipedia.org/wiki/Dougga
http://en.wikipedia.org/wiki/Julius_Caesar
http://en.wikipedia.org/wiki/Roman_Empire
http://en.wikipedia.org/wiki/Africa_(Roman_province)

0 件のコメント:

コメントを投稿