2013年3月30日土曜日

ハンニバルの象は何処から来たのか?

チュニジアの英雄とは言わずと知れた『ハンニバル・バルカ』であろう。ハンニバルは第二次ポエニ戦争(BC218~BC201)にて象の部隊と共にアルプス越えを行ったことで有名である。その象の数は37頭といわれている。イタリア半島へ進軍し、ローマの元老院を驚愕させたのは多くの人が知るところだ。一時は、ハンニバルはナポリの北までローマ軍を追い詰めたというのでその勢いたるや相当なものであったのだろう。
 


ハンニバルはカルタゴが滅びた後もローマ史上最大の敵として後世まで語り伝えられているようだ。20世紀以上経った現在でもイタリア人は子どもを叱る時には『戸口にハンニバルが来ているよ!』という言葉が使われるようであり、ローマ時代には如何にハンニバルが恐れられていたかがわかる。

多くの日本人もハンニバルの象部隊に対してロマンを感じているようだ。私も子供の頃から父親からハンニバルの象部隊によるアルプス越えの話を聞かされていた。お陰様で、他の多くの内容は忘れたが、歴史の授業で習ったポエニ戦争やハンニバルの話は覚えている。

しかし、そのロマンを感じるであるが、チュニジアに住み始めて以来、今まで一度も見たことはない。チュニジアに生息している話も一度も聞いたことがない。それでは一体、このハンニバルの象はどこから来たのであろうか。調査してわかったが、世界の歴史学者や考古学者も同じ疑問を抱いており、この問題について喧々諤々議論がされていたようである。

『アジア象(左)』と『アフリカ象(右)』の比較
ポエニ戦争が起こる前の大昔には、象はオーストラリアと南極以外の全ての大陸に分布していたという。しかし、象は自然環境の変化や人類の狩猟などによりやがて衰退し、現在に至ってはサハラ砂漠以南のアフリカに生息する『アフリカ象』とインド及び東南アジアに生息する『アジア象』の2種類が残っているのみであるという。また『アフリカ象』の亜種と考えられ、現在、アフリカ大陸の西部から中部に生息している『マルミゾウ』は、最近は別種とされることが多くなっているようだ。

ちなみに上記の比較図で見られるように『アジア象』は『アフリカ象』よりも小さい。耳が肩までかかっておらず、背中が凸型になっている。『アジア象』は手なずけるのが容易であると言われている。動物園やサーカスでインド象が好まれる理由はその為である。一方で『アフリカ象』は耳が大きく、背中が凹型であるのが特徴である。しかし、気性が荒く、手なずけるのが困難であるという。
カルタゴ時代のコイン

それでは、ハンニバルの象部隊は『アジア象』なのであろうか。『アフリカ象』なのであろうか。その鍵はカルタゴ時代のコインにあるようだ。右記の通り、コインに記されている象は耳が大きく、背中が凹型であるのが特徴的である。これは『アフリカ象』の特徴を示している。しかし、気性が荒いと言われている『アフリカ象』を手なずけることができたのであろうか。また、コインの象にまたがっている人から比較する象はあまり大きくない。『アフリカ象』の肩高は3mから4mと言われているに対して、コインの象の肩高は2.5m程度であろう。

マルミゾウ
実は多くの歴史家はハンニバルの象部隊は当時のモロッコとアルジェリア地方にある森林地帯に住んでいた象であると指摘しており、今日の『アフリカ象』より、小さい象が生息していたと説明している。又、この北アフリカの象は、現在の『アフリカ象』よりも、大人しく、手なずけることが可能であったと言われている。この『アトラス』といわれる象はこの地域が砂漠化するにつれて絶滅したという。しかし、上述した『マルミゾウ』がこの『アトラス』の亜種であると指摘している学者もいるようだ。肩高も2.5m程度である。実際に『マルミゾウ』の写真とコインの象を比べてみても酷似していることがわかる。『マルミゾウ』は長い間、『アフリカ象』の一種と考えられていたが、DNA調査等で、現在はアフリカ象とは別種とされることが多いようだ。しかし両種の間で類似している部分は多いという。

シリア象の化石
ところが、第2次ポエニ戦争時にハンニバル“自身”が乗っていた象は他の象(マルミゾウ)と比較しても巨大であったといわれており、シリア人を意味するスルス(Surus)という名前がつけられていたという。これから考えてもハンニバル“自身”が乗っていた象はアジア象の一種である『シリア象』である可能性が高いようだ。このシリア象は絶滅したが、肩高は3.5m程度であると言われている。

もし、ハンニバル自身の象が『シリア象(アジア象)』だとすると、この象はどのようにして北アフリカに来たのであろうか。『シリア象』はエジプトの大王アレクサンダーの後継者であるプトレマイオスがシリアにおける戦争の戦利品として数頭確保したことで知られている。当時エジプトとカルタゴは友好的な関係を結んできたため、それらの象の子孫の何頭かがカルタゴに行き渡った可能性があるようだ。故に、ハンニバルの象部隊の少なくても一頭は『シリア象(アジア象)』であったと言われている。

さて、それでは、これらの象はどのように北アフリカから地中海の海を越えて、ヨーロッパに運ばれたのかが疑問に残る。当時のカルタゴのフェニキア船の三段オール式ガレーの漕ぎ手は100人と言われ、兵士も100人乗船することが出来たようだ。更に五段オール式ガレーになると300人、兵士の数も同様に300人に乗船できたそうであり、カルタゴが象を輸送できるだけの船の能力を持ち合わせていたのは間違いないようだ。海洋国家カルタゴ恐るべしである。

第2次ポエニ戦争が開始された時のハンニバルの軍は歩兵 90,000人(リビア兵 60,000、スペイン兵 30,000)、騎兵 12,000(ヌミディア兵主体)の傭兵であり、カルタゴ軍が如何に多国籍であったことがわかるが、象の部隊も国際的であったようだ。象は人間には聞こえない低周波音で会話されていると言われるが別の種類間でも会話はできたのであろうか。疑問である。

いずれにせよ、当時、戦争に駆り出された象は、地中海を渡ったり、アルプスの山を越えさせられたりして、大変だったに違いない。多くのストレスを感じたことであろう。象さんには、『お疲れ様でした。』と声をかけてあげたい。


【参考資料】
http://historum.com/ancient-history/38843-hannibal-s-elephants-2.html
http://jp.reuters.com/article/oddlyEnoughNews/idJPJAPAN-18745820101222

2013年3月24日日曜日

チュニジア人の結婚観について

春が訪れた。チュニジアでは暖かくなるにつれて結婚シーズンが始まる。チュニジアにおける結婚シーズンのピークは夏である。私のヨーロッパ人の友人もチュニジア人と結婚予定の者が2人いる。

過去に2回ほどチュニジアの結婚式に招待されたことがある。花嫁がウェデイングドレスから、伝統衣装に衣替えをする姿は洋の東西問わず華やかであった。また、周りの親族や友人がインディアンの叫びのように甲高い声を挙げて祝う姿や、優雅に伝統的な踊りをする人々が印象的であった。しかし、そのあまりにも大音量の音楽に閉口した。隣の人の話声も聞こえないほどであった。

一般的にチュニジア人の結婚式に関連する儀式は、複数回開催されるようだ。伝統的な結婚式は結納や前夜祭の様な儀式も含め新婦側で5回、新郎側で2回といわれている。その費用は通常、新郎持ちのようだ。その費用は場所によって様々であるが、(通常は)一生に一回のイベントであり、盛大に行われることが多いという。また、チュニジア人は(表だって)お祝いを現金で受け取る習慣がなく、結婚式を挙げる為の資金負担は相当であるという。

しかし、日本でも不景気が長引くに連れて、いわゆる地味婚が増えたり、結婚の時期を伸ばしたりするケースがあるが、最近のチュニジアも同じような傾向にあるようだ。チュニジアは若者の失業率が高い為に、若い時期に結婚がなかなかできないという事情があるようだ。従い、お金がある年の離れた男性と結婚する女性も珍しくはないという。

さて、それではチュニジア人は一般的に何歳位で結婚するのであろうか。Wikipediaの情報しか見当たらないが、2007年の『National Family and Population』による調査によると、男性の平均が33歳、女性のそれが29.2歳であるという。この定義と調査方法が解りかねるが、初回の結婚の平均年齢としては若干高いような気がする。しかし、女性による高等教育の参加が欧米並みのチュニジアにおいて、上述した理由より、晩婚が進んでいるのは間違いないであろう。

また、結婚は法律的に本人の承諾が必要であるが、特に地方においては、未だに本人の合意の元とはいえ、家族を通じて相手が選ばれる事があるようだ。結婚の条件も職業、出身地、裕福か否か、また女性が貞操が守られているかが大きな比重を占めるようであり、本人同士の愛情よりも条件が優先されることもあるという。更に、本人が相手を選んだとしても、家族の承諾を得なければ結婚をするのは難しいようだ。

先日、友人のパーティーに来ていたチュニジア人の男女の若者達の結婚観を聞いたところ、女性の場合、このようなチュニジアの伝統的な仕組みに愛想を尽かしたので、結婚するのであれば外国人が良いという。しかし、外国人との結婚で譲れない条件について聞いたところ、旦那がイスラム教に改宗する事であり、自らが他の宗教に改宗するつもりはまったくないという。やはり、チュニジア人にとっては宗教は基本的な価値観であり、本人達も伝統的な仕組みからは抜け出せないようである。

また、その若者達によると、チュニジアは若者の離婚が多いという。お互いの家族間の些細な意見の相違で離婚に発展することが多々あるという。後でチュニジアの離婚について調べてみたところ、あるサイトによると、この数年で結婚した若者の離婚率は30%又は場所によってはそれ以上に昇るという。その離婚は女性から申し込まれることが多いようだ。

更にチュニジアは男性優位社会であり、家の中では父親が一番偉く、母親も対外的には娘よりも、息子を大切にする傾向があるというのは驚いた。当然ながら家族によっても価値観が異なると思われるが、一昔前の日本の男性優位社会を見ているようである。現在、日本の男性は草食系と言われ、20代の女性の平均給料は男性のそれを上回っていると言われる中、女性の力が増している。チュニジアは現在の日本とは状況が少し異なるようである。

ちなみに、私の隣のアパートの家族は喧嘩が絶えない。父親が母親を怒鳴っているのがよく聞こえ、隣人として心配している。母親もやり返しているようであるが、やはり、父親の威厳が強いようである。子供もいて、色々な親戚が出入りしているので母親が孤立するような事はなさそうなので少し安心であるが、聞こえる怒鳴り声を聞く限り、その父親の横暴さは巨人の星の『星一徹』なみである。

前述したチュニジア人の若者達に対して、その隣近所の父親が母親に暴力を振るったとして、私が警察を呼んだらどうなるのかと質問したところ、警察はまったく相手にしないはずとコメントしていた。これはあくまで個人の問題であって、警察が家庭の中に介入する事は皆無であるという。基本的には日本の警察も同じようなスタンスであろう。ちなみに、アメリカに住んでいた際に、隣近所の旦那が度々奥さんに暴力を振るっており、近所の人が警察に通報したところ、旦那が逮捕されたことがあった。アメリカは家庭の問題であっても、基本的な人権を踏みにじるような事があれば警察が家庭に介入する。ここは西洋の考え方とイスラムや日本と考え方が大きく異なるようである。

チュニジアの近所の例を見ても、結婚に関する問題は東西問わず、普遍的であるようだ。先日、川北義則さんの本を読んだところ、ドイツの劇作家のグラッペによると『女は深く見、男は遠くを見る』という言葉があるようで、男女の人生に対する焦点の見方は異なるという。ある意味で男と女が理解し合うのは難しいということのようだ。

それが事実だとすれば、チュニジアの若者の男女には、相手に過度な期待を持たないのが結婚の長続きの秘訣だとアドバイスするべきということであろうか。結婚シーズンが始まる時期に少し寂しすぎる気もするが。
 
【参照資料】

http://khedija.blog.fr/2012/12/08/early-marriage-the-case-of-tunisia-15295998/
http://www.awid.org/Library/Marriage-and-Divorce-in-Tunisia-Women-s-Rights
http://en.wikipedia.org/wiki/Culture_of_Tunisia#cite_note-87
http://www.tunisia-love.com/woman-in-tunisia.htm
http://khedija.blog.fr/2012/12/08/early-marriage-the-case-of-tunisia-15295998/
 

2013年3月20日水曜日

チュニジアの独立記念日

本日3月20日は、チュニジアがフランスから独立してから57年目の『独立記念日』である。

チュニジアは1881年から1956年の間にフランスの『保護領』であった。その間、フサイン朝のベイと呼ばれる君主は傀儡にすぎず、事実上の統治はフランス人総監が行い、さらに政府および地方自治の要職もフランス人が占めたようだ。

1956年にフランス政府は世界の独立運動の気運の中で、ムハンマド8世アル・アミーンを国王にする条件でチュニジアの独立を受け入れた。初代首相にはハビブ・ブルギーバが選ばれ、『チュニジア王国』が成立し、独立を達成した。しかし、ブルギーバは翌年の1957年には王政を廃止し、大統領制を基盤とした『チュニジア共和国』を誕生させたという。

フランスから独立してから57年目の月日が経つが、チュニジアは独自の道を歩んでいるのであろうか。客観的に見て、フランスのチュニジアに対する影響力は未だに絶大であると映る。経済においては、最大の輸出先は未だにフランスである。アメリカに対する同年の輸出は1.5%に過ぎない。観光もリビア人を除いて未だにフランス人が最大の観光客であるという。社会の基盤である高等教育の大部分はフランス語で授業が行われており、多くのチュニジア人がフランスに留学にするという話を聞く。JOSHUAPROJECT によると44万人のチュニジア人がフランスに住んでいるようだ。

今日においても、チュニジアの社会においては、フランスに未だに憧れを抱いており、如何にフランス化しているということが、社会的なステータスであるということがいえるのではなかろうか。
 
ちなみに、チュニジアでは多くの国民がフランス語を話すが、母国語並みにフランス語を話す人はそう多くはない。また、チュニジア人の多くはフランス語はRの音が巻き舌であり、アラビア語風の発音である。本来のフランス語のRの発音は痰を吐き出すような音と言われているが、チュニジア人の上流階級の多くはRの音を軽く発音するような綺麗なフランス語を操る。特に、女性にとってはその洗練された発音のフランス語を話すことがステータスであるようだ。大抵、その層の人たちはフランスに留学したことがあるか、チュニジアでもフレンチスクールに行っていた人達が多いというのが私の印象である。

ハビブ・ブルギーバも少年期をチュニジアにおいてフレンチスクールに通い、その後20年間、フランスに住んだ所謂フランス化したチュニジア人であると言えるであろう。男女の平等や、教育の普及をもたらしたのはフランスの思想の影響を受けた証ということであろうか。

しかし、チュニジア人がフランス人に対して抱く感情は、植民地において“支配された側”が“支配した側”に対して感じる『憎愛』とも言えるかもしれない。上述した憧れやステータスを感じる一方で、憎しみも深いようだ。その『憎』の方で象徴する出来事があった。今年、1月17日にフランスのテレビ局であるFrance2が放送した特別レポート『サラフィストの攻撃を受けるチュニジア』が、チュニジア人の著名人や、知識人、更にはインターネット利用者の間でその逆鱗に触れたようだ。その番組はサラフィストにおける数々の行為がチュニジアの社会の安定や、観光業に脅威を与えていると非難したものであるが、 チュニジア人より革命後の姿が著しく歪曲化され、誇張されていると酷評されている。

その怒りはダウンタウンのフランス大使館近くにてデモにまで発展したという。偶々、フランス人の友人が近くを通りかかったというが、身元がばれないようにその現場を急いで離れたという。そのデモはフランス人に対して殺気に満ち溢れていたようだ。彼の親はイベリア半島出身であり、彼は典型的なフランス人に見えずに助かったと吐露していた。
 
本日のブルギバ通りの時計台
(右側は内務省、鉄線で包囲)
 チュニジアにおいて、独立後の1957から2011年まで2代続いたハビブ・ブルギーバ並びにベン・アリー政権はフランスの影響を多大に受けた政権であったと言えよう。あくまで個人的な見解であるが、2011年1月の革命とは、チュニジア人としての自らのアイデンティティーを求めた第2の独立運動という意味合いもあったのではなかろうか。

第2の独立運動において、チュニジア人は自らのアイデンティーを確立し、国家の繁栄を導くことができるのであろうか。そして、現在の政権は1957年の独立時と同じような重い責任を感じているだろうか。チュニジアの将来の繁栄は、今年の政治的な決断に大いにかかっている。これが成功裡に収める事ができれば、アラブにおける初の無血革命の成功例を世界に示すことができるだろう。

本日のブルギバ通り
(乱闘騒ぎが数か所であった)
追記:本日のハビブ・ブルギーバ通りは、独立記念を祝って様々な主張をする団体で溢れかえっていた。フランスの対チュニジア外交に反対するもの、労働者、学生等で一杯であった。大声でスピーチするもの、主義主張を交えた歌を歌うもの。メディアのインタビューを受けるもの等多様であった。数か所で乱闘騒ぎになったりして心配したが、突然雨が降り出して、その騒ぎも収まったようだ。暴力には反対であるが、チュニジアは現在、議論をする土壌が醸成されつつあるようだ。これが良い方向の民主主義に進むことを祈っている。
 

2013年3月17日日曜日

海洋国家カルタゴの終焉(ポエニ港にて)


ローマ帝国の将軍であるスキピオ・エミリアヌスに仕えていたポリュビオス(BC204~BC125)が著した『歴史』によると、カルタゴ人は他の国の誰よりも海事に従事していたという。その海軍は継続的に300~350の軍艦を地中海全体に派遣し、他国の監視を行っていたという。

また、塩野七生が著した『ハンニバル戦記』によると、第1次ポエニ戦争以前の、BC342における協定では『ローマはサルディーニャとコルシカの二島以西の西地中海全域の通商を禁止され、一方でカルタゴの通商権はカルタゴの任意とした』というローマにとって極めて不平等な条約が締結されていたようだ。

第一ポエニ戦争(BC264~BC241)迄は、農耕民族であるローマ人は船と呼べるような船も持っておらず、如何にカルタゴが地中海において圧倒的な支配力を持っていたかがわかる。カルタゴは『ローマ人はカルタゴの許可がないと地中海で顔を洗うことも出来ない』といわれるほど、海洋国家としての自信に溢れた時代を謳歌していたようだ。

しかし、3回に及ぶポエニ戦争(BC264~BC146)にて、カルタゴはローマ軍に敗北を喫した。第3次ポエニ戦争(BC149~BC146)の結末は、3年間の籠城戦の後、カルタゴ市街の残った建物は徹底的に破壊され、生き残った5万人のカルタゴ人捕虜は全員奴隷となったという。カルタゴには永遠に人も住めず作物をできないようにローマ軍によって塩がまかれた話は有名である。

ポエニ港(軍港)
本日、そのカルタゴにあるポエニ港に行ってみた。ちなみにチュニジアの冬は意外と長い。振り返ると4か月間は寒い時期を過ごしていることになる。今週は暴風雨が吹き荒れる寒い日々が続いてたが、週末になり、ようやく春らしい穏やかな天気になったので、その周辺を探索してみた。

そのポエニ港は、現在は一見、池にしか見えないが、よく観察するとカルタゴ時代の軍港と商業港の面影を垣間見る事ができる。第3次ポエニ戦争(BC149~BC146)後はこの港は荒廃していたが、ローマ帝国がAD2世紀に、二つの神殿が立つ円形の港として再建したという。現在、陸続きになっている港の中央の小島では『カルタゴ時代の軍港』と、『ローマ時代の港』の二つの復元模型がある。

カルタゴ時代の軍港
『ローマ史』の作者アッピアノスによると、カルタゴ時代の軍港内の円形のドームには220船のカルタゴ軍船(3段オール式ガレー船)が停泊出来るように、各ドックが壁によって仕切られたスペースがあったという。その階上は設備用の倉庫になっていたようだ。軍港全体は半径が160M、円周1020Mであり、中央のドーム型の船場は半径120M、円周は332Mであったという。ドームの復元模型を見ても、船が停泊できるドックが細かく分かれており、紀元前にこのような洗練されたインフラが構築されていたのは驚きである。

また、隣接する商業港は幅が150M、長さが400Mであったという。約21Mの入口を経て、軍艦も商船も港に入ってくる構造になっていたようである。(上記カルタゴ時代のポエニ港の絵を参照。)

ローマ帝国時代の輸出港
(以前はカルタゴの軍港)
その後、ローマ時代に再建された港は、『軍港』から『輸出港』に変貌を遂げたようだ。前述した二つの神殿も、模型において見ることができる。その小島の警備員の説明によると、この輸出港からオリーブや小麦粉がローマ帝国に輸出されたという。カルタゴはローマの属州となり、その肥沃な土地はヨーロッパ人の食糧庫となったようである。

上述した『ハンニバル戦記』の第3次ポエニ戦争に関する記述によると、ローマ軍の総司令官『スキピオ・エミリアヌス』はカルタゴ籠城戦3年目(BC147~BC146)の冬期の自然休戦期を利用して、ローマの元老院に使者を送り、カルタゴの首都の処遇について指示を仰いだという。ご参考までに『スキピオ・エミリアヌス』は、第二ポエニ戦争時にハンニバルをザマの戦いで破った『スキピオ・アフリカヌス』の養孫にあたる。

当時38歳であったスキピオ・エミリアヌスはカルタゴの運命を一人で決定することに躊躇ったようである。そしてBC146の春になり、元老院からカルタゴを“落城”する指示が届いた。


ローマ軍が閉鎖した商業港
(左の奥がその入口)
 
BC149からの籠城後、BC146の春には、海と港をつなぐ入口は、ローマ軍が築いた堤防により完全に封鎖されていた。海側から進行を開始したローマ軍に対し、カルタゴ側は、外港の周囲に並ぶ倉庫や造船所に火をつけることで対抗したという。その火の中で市街戦がはじまったようだ。そして7日目にカルタゴは神殿の並び立つビルサの炎上で落城したという。

歴史家のポリュビオスはカルタゴが崩壊する現場に居合わせていた。ポリュビオスの記述を再現したアッピアノスの『ローマ史』によると、『スキピオ・エミリアヌスは眼の下に広がるカルタゴの都市から、長い間眼を離さなかった。建国から700年もの歳月を経て、その間長く繁栄を極めていたカルタゴの都市が落城し、瓦礫の山と化しつつあるのを眺めていた。』 そして、スキピオ・エミリアヌスは、敵のこの運命を想って”涙を流した”といわれてる。

スキピオ・エミリアヌスは言った。『ポリュビオス、今我々は、かつて栄華を誇った帝国の滅亡という、偉大なる瞬間に立ち合っている。しかし、わたしの胸を占めているのは勝者の喜びではない。いつかはわがローマ帝国もこれと同じときを迎えるであろうという哀感なのだ。』

2159年前の同じ場所、同じ季節に起きた歴史の一幕である。本日はポエニ港を歩きながらカルタゴの歴史に思いを馳せた一日であった。

2013年3月15日金曜日

アフリカ人の英語について

10億人が住むアフリカ大陸は多様な言語が用いられているが、その数は1500~2000程に及ぶという。多くのアフリカの国では土着の言語が話されているが、国の公式言語は宗主国の言語の影響を受けている場合が多い。その言語は大きく分けて、アラビア語(北部)、英語(東部、南部)、フランス語(北部、西部)、ポルトガル語(南部)に分けることが出来るであろう。このような環境で育っているアフリカ人は生まれながらにしてポリグラット(多言語話者)であるのは納得である。

国際的なビジネスの場合には、英語かフランス語で商談が行われることが多い。契約書も現地法のみならず、フランス法、イギリス法に準拠して、それぞれの言語で締結されることが多々ある。また最近は、フランス語圏(フランコフォン)の若いビジネスパーソンでも英語が話せる者が多く、英語で商談が進められることが多い。

しかし、英語による商談と言っても、その”話す”英語は多種多様である。私も、この1年数か月間、アフリカに住んでみて、様々な国の同僚、顧客、パートナーと英語で話をしてきたが、当初はあまりも多様なアクセントに戸惑った。私は過去に華僑やインド人の英語も克服してきたつもりなので、癖のあるアクセントには多少の自信があったが、その期待はすぐに裏切られた。私の
印象では、東アフリカのケニア、ウガンダ、タンザニア人の英語は解りやすいが、西アフリカのナイジェリア人や、南アフリカのボツアナ人の英語は聞き取るのに一苦労である。最初はその人達の英語のレベルを疑ったが、メールで受け取るWritten English(書き言葉)は素晴らしい。基本的には高い教育を受けたネーティブのレベルである。

ちなみに、アフリカは距離が広いので、容易にFace to Face(対面)の打ち合わせをするのが困難である。従い、電話会議でビジネスが進められる事が多い。アフリカ移住後の当初、ナイジェリア人と電話会議を行うことが多かったが、アフリカの国際電話の音質は極めて悪く、相手が早口でアクセントが強く、更に子音を明確に発音しないので、聞き取れない場合が多かった。最初の頃は電話会議の後には、何とも言えない頭痛に襲われたのを覚えている。

最近、ようやく仕事や専門用語に慣れ、また、アフリカの話題に明るくなってきたことにより、昨年とは段違いに理解度が増したが、それでも電話会議の時は未だに憂鬱である。

以前、同僚のアメリカ人に相談したところ、『心配するな。俺も何言っているのか判らない事が多い。判らない時には聞き返すが、正直、集中しないと聞き取れない。』とコメントしていた。また、ある同僚から聞いた話は、西アフリカ人の同僚が会議中で英語でまくしたてたが、東アフリカの人達は唖然として、『誰か今何言ったか分かったか?』と仲間同士で顔を見合わせるばかりだったという。

茅ヶ崎方式 時事英語教本―応用編は私の人生は英語で苦労の連続である。中学の頃から英語が好きで、15歳の時に念願のオーストラリアへの高校留学の夢が叶った。しかし、訛りの強いオーストラリア英語で話す先生の内容が判らず、挙句の果てにはホームシックにかかった。大学時代にはケーブルテレビでCNNを見るようになり、時事英語を理解する為に『茅ヶ崎方式時事英語教本(応用編)』をボロボロになるまで読み、カセットテープが擦り切れるまで何回も聞いて単語を覚えた。社会人になっても、駐在を希望して、『Time 』や、『NewsWeek』、『Economist』を通勤中や夜中に読んで知らない単語を覚えた。その間、マレーシア、シンガポール、ネパール、香港、米国等の様々な国に出張し、色々な国の人と出会い、英語で商談を行った。

転職することによって駐在する機会を失ってしまったが、その代わりに、カリフォルニアのMBAに留学したのは30後半になってからである。受験の為に改めてTOEFLやGMATを勉強し、入学してからも、大学院の駐車場の屋上で大声を出しながら、夜中にプレゼンの練習していたのはつい4~5年前の事である。MBAから帰国した後も、毎日、通勤中や夜中にIPodで英語のニュースを聞き続けて、それが元で難聴になってしまった。

アフリカに来てからは電話会議における英語の聞き取りと、書く英語で散々苦労である。自ら選んだ道とはいえ、『いばらの道』は果てしなく続く。心が折れそうになることがあるが、様々な国の素晴らしい仲間に出会える喜びは格別である。愚痴はこれくらいにしておかないと罰が当たるかもしれない。 

2013年3月9日土曜日

アフリカの『起業家(アントレプレナー)』

アフリカ大陸のトップ企業』というテーマで紹介したが、アフリカ大陸全体のGDP(2011年)は1.87兆ドルであり、仮にアフリカが一つの国であるとすると、世界で9番目の経済規模になる。これは同年のロシアのGDP1.86兆ドルや、インドの1.85兆ドルを上回る。一般的な日本人のイメージとは異なり、アフリカは立派な経済大陸”なのだ。
 
このようにアフリカの経済規模は拡大している。しかし、米国やインド、又は少し前の日本のような、一代で財を成すような“起業家”の話をあまり聞いたことがない。また、『Toyota』、『Sony』、『GE』、『Google』や『Facebook』のようなブランドを誇れるようなグローバルな企業が殆ど存在しないことも事実である。しかし、現在、アフリカにおいては、人口の急増や中産階級の拡大によって、様々な企業が誕生し始めている。これらの企業は国営企業や外資によるもののみならず、現地の“起業家”が立ち上げたものも多数ある。
 
その典型的な例は、アフリカのなかで著名な起業家である『モハメッド・イブラヒム(通称:モ・イブラヒム)』であろう。モ・イブラヒムはスーダン人であるが、1990年代に『セルテル社』を創設し、東アフリカの24国を中心とした携帯電話会社を成長させた。アフリカでは国営企業や欧州等の外資との合弁会社が多いが、セルテル社はそれらの資本関係を持たず、独立系の企業として事業を拡大したという。同氏は、2005年にクウェートのMTC社(ブランド名:Zain)にセルテルを売却をして巨額の利益を得た。その後、『モ・イブラヒム財団』を立ち上げ、アフリカのガバナンスを向上をする為の活動を行っている。

これらの起業家は、自らの富の拡大を最優先にしているのではなく、アフリカ社会の向上や社会への還元を目的としている人が少なくない。

先日、サブサハラの某国における若い起業家と電話で話をした際にも、アフリカ社会の変革の“強い意志”を感じた。仕事の内容には触れるつもりはないが、その企業家の高潔な考え方に触れ、感動したので書き留めておきたい。

その起業家の年齢は30代中頃であろうか。元々エンジニアリングと経営学を海外で学んだ後、サブサハラの某国で、インターネット・サービス・プロバイダー(ISP)を立ち上げたという。某国において、初の『通信料固定価格』、『24時間電話対応』、『無料の機器提供や据付』のサービスを開始したそうだ。彼は、海底ケーブルの帯域を確保する為に、親や自らの資産を担保として差出し、必要な資金を調達した。通常、銀行はスタートアップ企業に対しては貸し出しを行わないが、彼はビジネスモデルを説明するとともに、その社会的な重要さを銀行に説いたという。

彼はISPの事業を行った際に、アフリカ人が欧米の同世代の人間と競争する為には、ブロードバンドの普及が欠かせないと確信したそうだ。(現在、アフリカの多くの国のインターネットの普及率は5%以下である。)彼の主張は、アフリカ人の多くは、アメリカ人や日本人が当たり前に利用しているテクノロジーに触れることができず、それが故に競争で不利な立場を強いられているということである。アフリカ人が先進国の人間と同じ環境を与えられれば、必ずや世界で競争が出来ると信じているという。現在、彼は某国の政府から周波数を買取り、LTEを基盤としたモバイル・インターネットサービスを立ち上げ、デジタルデバイドの解消を目指している。

電話で話したその起業家の迫力は凄いものがあった。また彼はアフリカにおける社会変革の為に事業を行っているという“信念”があるので、その目的にぶれが無い。『今まで話したのが自分のストーリーだ。今度は貴方のストーリーを聞かせてほしい。日本人の貴方は何故アフリカで働いているのか。』起業家にとってビジネスの交渉は、一対一の人間のぶつかり合いの場であるようだ。

以前、社会起業家で有名な山口絵理子さんの『裸でも生きる』という本を読んで感動したことがある。バングラデッシュにおいて25歳で起業した経験を綴った本である。
 
『他人にどう言われようが、他人にどう見られ評価されようが、たとえ裸になってでも自分が信じた道を歩く。それが、バングラデシュのみんなが教えてくれたことに対する私なりの答えだった』と述べている。

山口さんも、アフリカの起業家の彼にも共通点がある。自分の信じた道を歩んではいるが、それが決して自らの為ではなく、途上国の人々の可能性を信じて行動していることである。その信念をライフワークとし、自らリスクを取って生きている。
 
そのアフリカの起業家の高潔な考え方に触れ感銘を受けた。今後、アフリカは彼の様なリーダーに引っ張られ成長していくであろうと確信している。 

2013年3月7日木曜日

リビア~国境を越える武器~


私がアフリカへ移住を決断したことに対して多大な影響を与えた人がいる。その方は私がかつて働いていた外資系のエネルギー会社の役員であり、偶々であるが、私が最初に勤めた総合商社の大先輩でもある。大変尊敬をしている方である。

その外資系エネルギー会社が10年以上前に倒産した際には、社員は次の職場を探さざるを得なかった。通常は企業における働き口を探すが、その先輩の場合は型破りであった。しばらくの間、自ら起業をした後に、最終的にリビアにおいて就職先を選んだ。2005年の愛知万博の際に、セイフ・カダフィーの案内役を務め、小泉総理に引き合わせたことで信頼を得たようだ。その後、彼はリビア政府に対するインフラのアドバイザーとして、トリポリに滞在する。彼は商社時代に培ったリビアにおける人脈を大切にしていたお蔭で、このような機会に恵まれたという。

2011年8月に横浜でその大先輩と食事をしながら、アフリカへの転職に関して、個人的に相談をさせて頂いた。彼が私の背中を押してくれたのは言うまでもない。その頃、既にリビアでは内戦が起こっており、彼はリビアから退避せざるを得なくなっていた。食事をしながら、先輩からはカダフィ-の親衛隊がトァレグ族から成り立っている事や、現在苦戦を強いられているが、その親衛隊の戦闘能力が高い事などを教わった。

その2週間後にカダフィー政権は崩壊した。現在、革命運動が勃発してから2年の月日が経ったが、未だにリビアは不安定な状態が続いている。カダフィー政権崩壊により、マリにおいても問題が飛び火しているのは周知の通りである。これは先輩が指摘したように戦闘能力の高いトァレグ族がマリに戻ったからである。あの時の彼の意味が今になってようやくわかってきた次第である。

実はカダフィーとトァレグ族の関係は歴史的に深い。元々トァレグ族の多くが遊牧民であるが、1970年代にカダフィーが『イスラム軍隊』を創設した際に、多数のトァレグ族が参加したという。当時サヘルにおいては干ばつが起こっており、多くのトァレグ族は経済的にもカダフィーに頼ったという背景もあったようだ。このイスラム軍隊は北アフリカにおいて『統一イスラム国家』を創設する事を目的としており、チャド、スーダン、レバノンにおいて戦闘が行われたという。しかし80年代の後半にはイスラム軍隊は解体され、多くのトァレグ族がリビアに残ったようである。

またカダフィーはトァレグ族の近隣国における反乱を支援していた。トァレグ族はマリとニジェールにおいて長年において政府と戦闘を度々起こしており、一方でカダフィーはその度に和平の調停役を名乗り出て、トアレグ族の聖域を確保してきたようである。

カダフィー政権崩壊後、マリや、アルジェリア、チュニジアまで問題が拡大しているのは、トァレグ族が、リビアにおいて備蓄していた武器を持ち出し、その武器が近隣国に流出している事に起因する。チュニジアにおいて、2月20日に大量のカラシニコフやPRGと呼ばれるロケット弾が押収されたが、これはリビアから密輸されたものである。カダフィーはソ連と蜜月時代を築いており、リビアの武器は旧ソ連製のものが多い。

少し話題はそれるが、本日、偶々、帰宅時に会った同僚と意気投合し、日本食屋で、ノンアルコールビールを飲みながら共に食事をした。彼とは、仕事上の付き合いだけであったが、初めて、個人的な話もした。その完璧なブリティシュ英語を操る同僚の生い立ちを聞いて驚いた。彼はリビア人であるという。1969年にカダフィーがクーデターを起こし、国王イドリース1世を追放した際には、体制側の彼の父親は、2年間投獄させられたという。彼が幼少の時の出来事だそうだ。気品があって、ノーブルな雰囲気が漂う同僚である。私の先輩がリビア政府のアドバイザーを務めた話をすると、同僚は2男のセイフ・カダフィーとも会ったことがあると話していた。

最近つくづく思うことは、人と人とは“縁”で結ばれているということである。先輩の様な人生のロールモデルがいなければ、私はアフリカに移住するという決断が出来なかったかもしれない。また、チュニジアに来て以来、様々な人脈が国境を越えて広がり、更にそれが目に見えないところで結びついているような気がしてならない。実はその縁によって人生が導かれているような気さえする。人は縁で生きているのではなく、縁で生かされているということであろうか。

しかし、縁が国境を超えて広がることは喜ばしいが、リビアの武器については国境を越えて拡大しないことを切に祈っている。

2013年3月3日日曜日

チュニジアの治安について

2月5日にショクリ・ベルイード氏は、チュニジアの有名なテレビ番組に出演した。番組において、彼は、自らが指揮する「民主愛国主義運動党(PPDU)」や、他の野党、そして彼自身が政治的な暴力の脅威に晒されていることを訴えたという。そして、Le Kefという町において、イスラム過激派がPPDUの集会を襲った際には、警察がそれらの動きを止めることをせず、黙認した事を暴露した。テレビ番組では、非難の矛先を現政権に向けたと言われている。

翌日2月6日の朝8:00頃、ショクリ・ベルイード氏は暗殺された。現在、複数のメディアによると、急進的な宗教グループに所属する4人の容疑者が逮捕され、取調べを受けているという。一人は殺人を認めたと言われているが、詳細は明らかになっていない。

現在、昨年の『アメリカ大使館襲撃事件』や、先月の『ショクリ・ベルイード氏暗殺』をきっかけとして、チュニジア国民は、与党の治安部隊や警察に対する管理能力に対して疑問を感じ始めている。革命前のベンアリ政権時は、治安部隊は警察の内部組織として機能し、同政権は治安部隊を完全に掌握していたが、現在の政権は、革命後、治安部隊の改革に着手しておらず、その管理能力が疑われている。


今後、治安の悪化が心配されるが、実際にチュニジアの治安は、他国と比べてどの程度悪いのであろうか。また、革命前と革命後を比較して、どの程度治安が悪化したのであろうか。統計的な数値を見ながら考察してみたい。

少しデータが古いが、UNODC(国連薬物犯罪事務所)の他国と比較できる最新の統計によると、2002年の『殺人(事故は除く)』はチュニジアにおいて119件(未遂を含むと265件)であり、事故件数を人口の10万人分で割ったインデックスは1.2である。これは同年の米国のインデックス5.6(16千件)と比べると遥かに低く、ドイツの1.1(0.9千件)とほぼ同じレベルである。ちなみに日本のインデックスは0.6(0.7千件)であり、日本は先進国の中でも最も殺人率が低い国の一つである。

『強盗』のインデックスはチュニジアの11.3(1.1千件)に対して、日本は5.5(7千件)、ドイツは71.4(59千件)、米国は145.9(421千件)である。米国、ドイツと比べて、チュニジアの強盗率の低さがわかる。


『窃盗』のインデックスはチュニジアの263(25.69千件)に対して、日本は1,870(2,377千件)、ドイツは3,817(3,149千件)、米国は2,446(7,053千件)であるという。チュニジアの窃盗の突出した低さには驚かされる。ちなみにチュニジアは窃盗の25.69千件の内、7.5千件が『重い窃盗』であり、それ以外の数値は万引き等の軽い窃盗であると思われる。

これらの数字はベンアリ政権崩壊の8年前の統計であるが、革命前までは大きなトレンドは変わらないと推測する。革命前のチュニジアが先進国と比較しても如何に安全であるかがわかる。それでは、革命後、治安がどの程度悪化したのであろうか。


2012年の2月の『Kapitalis』の記事によると、同月に内務省のAli Laârayedh大臣(現在の首相)が公表した革命後約1年間の犯罪の数値は殺人(未遂を含む)が約200件、強盗が約1100、窃盗が約8千件であったという。窃盗の数はおそらく『重い窃盗』しか発表していないと思われる。

これを見てもわかる通り、2002年のUNODCの統計と比較しても、窃盗の犯罪の数値は
若干増えている程度であり、強盗は2002年とほぼ同じ数値である。殺人(未遂を含む)に限っては数値は減っている。内務省が発表した数値は、革命後の社会が不安定になっている中での統計である。一般的には治安が悪化していると言われている中で、革命後の犯罪の結果が予想よりも低いのは意外であった。

先日、タンザニア人の同僚とチュニジアの治安に関する話になった。彼曰く、東アフリカで治安の良いタンザニアと比較しても、チュニジアの治安の良さは格別であると言っていた。その理由は革命後の現在でも、殺人、強盗等の重犯罪が少ないことを述べていた。チュニジアは他の途上国と比較すれば依然安全な国であるといえるであろう。

直近の1年間のデータがないが、徐々に治安が悪化している可能性は大いにある。あくまで印象であるが、最近、空き巣やひったくりは増えていると思われる。身近な友人や知り合いでも、この半年間で空き巣やひったくの被害にあったいう話を聞く。しかし、この1年数か月間、チュニジアに住んでみた印象は、デモが発展して暴力に発展することはあったが、日常の生活においては、チュニジアは決して殺人や強盗は多くはないという印象である。
 
私自身の経験では、初めてチュニジアに来た革命の直後の2011年5月には、スーツケース全てを盗まれたことはあったが、移住後1年数ヶ月間は、デモ時以外は、あまり身の危険を感じたことはない。週末の夜の飲んだ後に、普通に町で歩いたりしているが、少なくても、私に強盗を働きかけたり、喧嘩をしかけたりする者にあったことがない。

そういえば、1回だけ、以前、ダウンタウンで歩いていた時に、私が東洋人なので、ふざけてカンフーか空手の物真似をし続けた若い輩が数人いて、あまりにもしつこかったので、こちらも切れて、『俺は空手の黒帯だ。文句があるなら掛かって来い』と凄んだところ、『冗談だ。悪かった。』と喧嘩をするまでもなく謝ってきた。ちなみに、私は10代の頃は、ラグビーやオーストラリアンフットボールをやっていたので、多少の体力の自身はあるが、空手の黒帯は嘘である。また、中年になった40代の今では、決して強そうにも見えないと思う。

この話を妻にしたら、『歳なんだから、強がるのはやめて。本当に痛い目に会うわよ。』とたしなめられた。確かに、これが治安が悪い国だったら身ぐるみ剥がされてたかもしれない。先日、同僚とサッカーをした時にも、かつてのイメージとはまったく異なり、思うように走れず呼吸困難に陥った。これからは自分の実力を客観的に見るようにしなければならない。

今後、政治の行方によっては予断は許されない。治安が悪化する要因が拡大しているのは事実である。日本では、チュニジアも含めて『北アフリカ=危険地帯』というイメージが植え付けられているようであるが、しかし、普段の生活はそれなりに平穏であることをお知らせする。


参考資料
http://www.kapitalis.com/politique/national/8287-tunisienne-la-revolution-aggrave
http://www-rohan.sdsu.edu/faculty/rwinslow/africa/tunisia.html
http://www.unodc.org/pdf/crime/eighthsurvey/8sc.pdf

2013年3月1日金曜日

アフリカ大陸のトップ企業

私が社会人になったのは90年代の前半である。当時、既にバブルは弾けていたが、未だにその余韻が残っていた時代である。金曜日の夜中は、六本木や赤坂で先輩と飲んだ後に、自宅に帰る為に何時間もタクシーを待たされたということが多々あった。町のイルミネーションは豪華であり、若い女性達が派手なファッションを競っていた華やかな時代であった。

私が最初に勤めた会社は総合商社であるが、その頃の日本経済は未だに売上げが重視されていた。海外のプロジェクトにおいては、ゼネコンの代わりに現地の客先に口利きをして、ゼネコンから口銭(コミッション)を得ると、社内的にゼネコンの売上金額分も計上をするという仕組みがあった。これを『代行売上』と呼んでいた。今、考えると、取引に絡まないプロジェクトに対して、売上を計上するという奇妙な習慣であったが、利益とは別に売上を重視することを象徴する仕組みである。


その頃、総合商社ではほとんど実態のない取引も含めて、20兆円近くの売上げを競っており、“世界一”であるなどと豪語していた経営者がいたのを覚えている。



本日、『JeuneAfrique誌』が発行する『アフリカのトップ企業500社』という特集を購入した。アフリカ企業500社の売上高の順位があったので見てみた。売上金額をベースで比較しているのは、まるで日本のバブルの時代を見ているようである。国営企業が未だにあるので時価総額で比較できないという理由もあるだろうが、この売上げによる指標は、経済成長をしている国の象徴である気がしてならない。これから高度成長期に入っていくアフリカ大陸と、長い間成長の糸口を掴めない日本企業を比較してみた。

ご参考までに、現在のアフリカ大陸の人口は約10億人である。これは世界の人口の約15%にあたる割合である。そしてアフリカ大陸全体のGDP(2011年)は1.87兆ドルであり、仮にアフリカが一つの国であるとすると、世界で9番目の経済規模になる。これは同年のロシアのGDP1.86兆ドルや、インドの1.85兆ドルを上回ることになる。一般的な日本人のイメージとは異なり、アフリカは立派な経済大陸であることがわかる。

まず、企業価値検索サービス『Ullet』というサイトを利用して、日本の売上高順位100社のリストを見てみた。日本の企業の売上はトヨタ自動車が断トツのトップで18.5兆円、JXホールディングが10.7兆円、NTTが10.5兆円、日立製作所が9.6兆円、日産自動車が9.4兆円である。ちなみに日本の売上げの百番目の企業はJR西日本で1.2兆円である。

一方で『アフリカのトップ企業500社』に載っている企業は、一位がアルジェリアの石油会社であるSonatrachであり、売上を円換算すると6.2兆円である。これは日本の東芝(売上9位)とほぼ同額である。2位以下は3兆円以下の売上の企業である。アンゴラの石油会社Sonangol、南アの石油会社Sasol、携帯会社のMTN、総合企業のBIDVESTGroup、電力会社のESKOMが続く。6位までの全ては日本の売上100位以内に入る企業である。ちなみに有名なダイヤモンドのデ・ビアス社はアフリカにおいて売上10位で、0.64兆円、ビール会社のサブミラー社は20位で売り上0.5兆円である。

一般的な日本人のイメージとして、アフリカ大陸においては規模の大きい企業はエネルギー、非鉄関連がほとんどと思われるかもしれないが、上述した通り、意外とそうでもない。50位以内に入る企業でも、通信、電力、リーテール、ゼネコン、海運、鉄道、保険、飲料、放送会社、製糸会社と多様である。ちなみに、50位以内の企業の国別は南アフリカが36社であり、モロッコが4社、エジプトが4社、アルジェリアが2社、アンゴラが2社、ナイジェリアが2社である。

ご覧の通り、アフリカ企業の規模はそれなりに大きい。これは10億の人口を擁し、巨大な市場を背景として、急速に成長している大陸の実態である。今後、アフリカ大陸は、着実に中間所得者が増え、企業の規模は拡大していくであろう。あくまで理論上であるが、あと10年経つと日本の売上100位に入るような企業が、現在の6社から、少なくても倍に増えるはずである。現在、アフリカ企業12位の南アのボーダコムの売上げは、日本の100位のJR西日本の約半分である。仮に7%の経済成長が続くと、10年後は2倍の売上になる。これは1961年に池田隼人首相発表した『国民所得倍増計画』と同じ考え方である。(ご参考までに2000年代のアフリカの平均成長率は5.6%で、世界平均の約2倍である。リーマンショックによるグローバル信用危機の中でも、着実に成長しているアフリカの姿がわかる。)

しかし感覚的にはアフリカの企業はもっと早く成長するのではないかと思う。推測であるが、10年後には日本の売上100位以内と同等の会社が3倍程度以上に増えるような気がする。企業は国民の所得増よりも早く成長するからである。まだガバナンス等もしっかりしていない企業が多く、上述したように国営企業も多い。今後、株式市場が発展して、資金調達が容易になれば、企業は子供のように早く成長すると思われる。

バブルのように弾けてしまうのは困るが、いずれにせよ、アフリカは紆余曲折を経ながらも、成長するのは間違いない。日本の皆さんには、『成長するアフリカに投資しませんか?』と改めて問いかけたい。