2013年1月31日木曜日

チュニジアの国境について

チュニジアの国土は北端から南端までが約850KMであり、東はリビア、西はアルジェリアに隣接する国である。リビアとの国境の長さは459KMで、アルジェリアとは965KMと言われる。西部は山岳地帯が広がり、南部は乾燥した土漠や岩砂漠が広がっている。両国との隣接する国境は長く、自然環境的にも管理が困難な事は容易に想像できる。

2011年にリビアで内戦が勃発した際には多くのリビア人がチュニジアに国境を越えて避難したといわれている。国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)によると、その数はピーク時に約百万人に昇ったという。リビア大使館の統計でも2012年6月時点で約54万人のリビア人がチュニジアに避難していたようだ。

実際に、私が2011年末にチュニスに引っ越した際にはリビア人が多いという印象を持った。家を探していた頃はリビア人流入により家賃が高騰していたほどである。一日必ず、白地プレートに黒字ナンバーのリビア車を何回も見たし、私のアパートにも複数のリビア人の家族が住んでいた。近くのカルフールでもリビア人が大量に買い物をしているのを度々見ていたが、皆どこか素性を隠しているような雰囲気もあった。お金に困っている様子もなく、おそらくカダフィー体制側の人達がひっそりと暮らしているのだろうと印象を持った。現在はその数は減少したと思うが、まだ多くのリビア人がチュニジアに住んでいるのは間違いない。

上述したリビア人は正規の手続きを経た人達がほとんであろうと思われるが、1月27日付『Jeune Afrique誌』によると、2011年のリビアの内戦を境にしてチュニジアとリビアの国境に大きな変化が生じているようだ。チュニジアの国境を越えて、兵器、麻薬、燃料、消費財等を運ぶ不法侵入者が後を絶たないという。更に、チュニジアとアルジェリアと国境においても問題が生じているようだ。昨年の12月10日にKasserineの山岳地域Derbeyaにて、武装したグループとチュニジアの国境隊が衝突し、国境警備員の一人が殺害された事件もあった。Morzouki大統領によると『カダフィー政権が保有していた武器は、リビアにおいてイスラム過激派の手に渡ったのみならず、アルジェリアやチュニジアでも同じ事が起こっている』と言及している。

「イスラム・マグレブ諸国のアルカイダ(AQIM)」によるチュニジアの活動も行われているという。内務省Ali Laarayedh大臣によると、昨年の12月、アルジェリアの国境に近い、チュニジア北部のChambi山にて6人のAQIMメンバーが逮捕されたという。彼らの目的は、チュニジアにおいてAQIMの活動基盤を構築することであったようだ。彼らは爆弾を製造訓練を受けており、逮捕の際は爆弾、弾薬、銃、双眼鏡、軍服等が押収されたそうである。

このような環境において、リビアとアルジェリア、そしてチュニジアは1月12日にそれぞれの国境において、武器や麻薬の流入や、組織的犯罪を抑え込む為に安全強化に協力する旨合意している。国境の犯罪は一国側のみでは防げない。是非、3か国間で情報を共有し、国境警備を強化することにより、国際的なテロ活動が拡大しないように協力してもらいたい。

2013年1月30日水曜日

チュニジアにおける補助金の行方


1月末の複数のメディアによると、チュニジアは IMFより、27.3億TND(約1600億円)のStand-By Arrangement(SBA)の資金援助を受けるという。このIMFによるSBAは経済危機に面している国に対して、金融安定と経済の持続性に必要な改革の実行を条件に、資金支援を提供するプログラムであるという。

ご参考までに、チュニジアのGDP(2012年)は459億ドル(約4.16兆円)、国家予算(2013年予定)は268億TND(約1.57兆円)である。ジャスミン革命後の2011年予算は食品や燃料の補助金を倍増したことが原因で、債務(対GDP比)が2010年の1.1%から3.7%に増大している。累積対外債務(2012年時)は232億ドル(2.31兆円)であるという。しかし、中央銀行の総裁によると、『チュニジアの累積対外債務(対GDP)は未だに50%程度であり、管理可能な範囲であると』と強気のコメントをしている。(1月26日付のLa Presseでも日本の債務(対GDP)の185%と比較すればまだまだ低いと記述されている。)

一般的に言われているのは、このIMFによる改革の方法は『小さな政府、歳出削減、食品、医療品、教育の補助金の削減、民営化、輸入関税の削減、市場開放、金融市場の開放』であるという。これらは市場開放をすることにより経済の効率性、成長への刺激、そして持続的な成長を目的としているようだ。今後、IMFをはじめとする海外債権者は、チュニジアを支援する代わりに、財政や税金の改革に様々な介入をしてくるであろう。予算全体の歳出の削減に関してはすぐには要求してこないだろうが、補助金の削減や、財政予算の分配方法の変更を求めてくると思われる。現在、チュニジアの補助金はGDPレベルで7%程度であり、内訳は4%が燃料向け、3%が食品他向けであるという。とても維持できる費用とは思えない。

チュニジアの指導者も、このような対外債権者に影響を受けてか、既に補助金の削減やその改革に関して言及し始めている。2012年11月26日付のAgence Tunisia PressによるとHamdi Jabali首相は2013年の国家予算(予定)に対して、富裕層に対する補助金を削減すると宣言している。また予算はインフラや地域開発、雇用増大に注力するという。金融大臣のSlim Besbesによると公共サービスにより新たに23,000人の雇用が創出されるそうだ。

最終的な2013年の国家予算の内訳は不明であるが、最近、巷でガソリンの補助金が削減されるという噂が流れている。現在のガソリン価格は1.43TND(83円)/㍑(1月27日付チュニスのガソリンスタンド価格)であるが、これは補助金を充てていることによって価格が下がっているそうだ。前述した如く、GDP4%に相当する額をガソリンを始めとした燃料に対する補助金に充てており、この補助金を撤廃すれば価格が倍になるという説もある。まずは10%~20%程度の値上げが近いうちにあるようだ。ご参考までに1月28日付米国のガソリンのリーテル価格は平均で3.357ドル/ガロン(80.45円/㍑)である。補助金をもってしても、既にチュニジアの価格の方がアメリカより高いのはチュニジアのエネルギー業界の非効率性にあると思われる。ご参考までにチュニジアはガソリン精錬所を一基しか保有しておらず、原油を海外に輸出して、国内需要53%のガソリンを海外から輸入している為である。

懸念されるのはインフレと一般層への影響である。今まで、チュニジアの燃料や食品に対する補助金はインフレの抑制に貢献してきた。ガソリンの補助金の撤廃は、既にインフレが発生しているチュニジアに追い打ちをかけないだろうか。ガソリンは富裕層の為だけではない。ガソリン価格は全ての基本的サービスの価格を上昇させる。学校や会社への通学・通勤、電気代、チュニジアの家庭における家計を圧迫する可能性がある。

政府にお願いしたいのは、現在、290ミリム(約17円)で食べられる美味しいバゲット(フランスパン)の補助金に対しては抜本的な改革は留意して欲しい。(この補助金を撤廃すればバゲットの価格は倍になると言われている。)これに手をつければ、間違いなく暴動が起こるであろう。庶民にとって死活問題であるからだ。補助金の舵取りは難しいことは承知しているが、チュニジア社会のラストリゾートは残して欲しい。

 (為替は1TND=58.59円、1USD=90.71円で計算)

2013年1月28日月曜日

衛星放送とアラブの春(2)

アラブの春(The Arab Spring)」において、衛星放送が果たした役割は大きい。前回のブログでチュニジアを始めとする中東各国の民衆が衛星放送をどのように視聴できる環境にあるのか技術的な観点で説明した。それでは衛星放送がチュニジアにおけるアラブの春(ジャスミン革命)においてどのような役割を果たしたのか考えてみたい。

チュニジアの憲法は『言論の自由、表現、報道、出版、集会、団体化は法律に規程された条件のもとで保障される。』と制定されている。また、報道法の第一条によると、チュニジアは『自由な報道、新聞・雑誌や本の出版、印刷、分配を認める』と明記されている。

しかし、1956年のブルギバ大統領による政権が誕生すると、政府は、まず新聞社、後にTV局に対する支配を強めていった。1987年からのベンアリ政権においてはその状況は更に強化される。チュニジア国営放送局(ERTT)は唯一の放送会社であるTunis 7 (衛星放送)とCanal 21 (地上系放送)を運営していた。その後、2005年に民間のTV会社であるHannibal TVや独立ラジオ会社の数局が生まれたが表現の自由は担保されなかった。メディアにとって大統領、閣僚そして、政府の腐敗を指摘するのはタブーであり、彼らは自主検閲という規制を制定し、政府を批判せず、生き延びていったのである。

ところが、衛星放送の誕生はアラブ諸国において大きな変革を与えた。衛星技術はあまねく人々に対して国境を越えて情報の分配を可能とした。アラブ諸国における政府系放送会社と視聴者の関係を変えていったのである。チュニジアも例外でない。人々はパレスチナ、イラク、アフガニスタン、また時には自国で起こっているニュースを知ることが可能になった。アルジャジーラ、BBCArabic、France24,Al-Hiwarのような放送会社は、自主規制や検閲を受けていない情報を求めていた視聴者にとって避難場所となっていったのだ。

アルジャジーラのニュース部門のトップ、ムスタファ・スアグ報道局長(65)によると、『アルジャジーラは、中東の国営放送とは違う動きをしている。彼らは、自国民を無知だと信じ込み、国営放送を自分の政府、特に大統領や首相のプロパガンダの道具として使ってきた。一方でアルジャジーラは視聴者の知る権利を信じ、プロフェッショナルな手法で、できる限り真実に迫ろうとしている。』とコメントしている。

革命の前の社会的混乱は、更にチュニジア視聴者の衛星放送への依存を高めていく。アルジャジーラの『Breaking News』として流れるニュースは国営放送社が報道していない内容であり、瞬く間に視聴者を集めていった。革命で大きな役割を担ったのは、パソコンや携帯電話、スマートフォン上でのフェイスブックやツイッターなどのSNS(ソーシャルネットワークサービス)であったが、アルジャジーラはフェイスブックのページやYouTubeの内容を参照しながら放送を行い、更に警察が民衆を脅威と圧力で抑え込む姿を次々と暴露していった。

アルジャジーラとしても、アラブ諸国が民主化すれば、各政府からの弾圧がなくなり、より自由な報道が可能になる。そのような理由により、アルジャジーラは革命を煽る報道を繰り返したという。

2011年1月14日、ついに、これらのインターネットや衛星放送によって立ち上がった民衆は前ベンアリ大統領を国外退去に追い込み、革命を成功裡に収めた。革命後、チュニジアでは独立系の放送局が6つも誕生し、現在では政府を公然と非難している。今後、民衆は真の民主主義を確立できるのであろうか。チュニジアを始め他の中東諸国の民衆の力量が試されている。
 

2013年1月27日日曜日

衛星放送とアラブの春(1)


チュニジアからエジプト、そして中東各国に波及した「アラブの春(The Arab Spring)」において、SNS(ソーシャルネットワークサービス)が担った役割が注目されたが、衛星放送が及ぼした影響も忘れてはいけない。民衆がCNNやBBC、そしてアルジャジーラ等の放送局から各国で起こっている情報を正しく入手していた為である。これらの番組は各国の政府系の放送局とは異なり、視聴者の知る権利を重視し、各国の政府が好まないような事実を伝えてきた。

それでは、北アフリカや中近東において、どのようにして衛星放送が視聴されているかその背景について考えてみたい。

衛星放送とは、地球上から送信した電波信号を、赤道上空約36,000kmにある静止衛星を中継して、地球上に向けて再送信している放送である。視聴者はパラボナアンテナで電波信号を受信することによって、番組の視聴が可能となる。

衛星放送の特徴は同報性と広域性にあるとされる。つまり、同じ電波信号を利用するのであれば、1人に対しても、50億人の視聴者に対しても利用する電波帯域は一定であり、しかも地球の約2/3をカバーすることができる。衛星放送に必用な帯域は約5MHz程度であるが、放送会社は送信設備を確保し、約5MHzの中継器(トランスポンダ)の利用料さえ支払えば、物理的に地球の約2/3に住む全ての視聴者にあまねく放送を提供する事が可能になるのである。

本来、衛星放送とは国境を越えることができるボーダレスな放送であるが、日本の衛星放送(BS,CS)の場合には若干事情が異なる。トランスポンダ(中継器)のビームの形状は日本列島に合わせて設計しており、国境を越えた広域な放送を困難にしている為である。しかし、衛星から送信される電波はスピルオーバー(所定の域外に漏れる現象)しているので、アンテナの受信能力を高めれば、近隣の諸国でも日本の衛星放送を見る事が可能となる。

さて、この衛星放送であるが、米国や欧州、そして日本等で発達してきたビジネスモデルはダイレクト・トウ・ホーム(DTH)と言われる。チューナーを購入し、CASと言われる暗号を解くカードを登録すれば、視聴者は初めて番組を見ることが可能になる。当然ながらCASを購入する為には衛星放送会社に対して毎月の支払義務が伴う。しかし、多くの国においてはこのビジネスモデルは存在しない。知的所有権が確立しておらず、また確立してても摘発が行われず、DTHビジネスを実施できるような環境が整っていないからである。

アパートにある
パラボナ・アンテナ群
ちなみにチュニジアの場合はどうであろうか。右記の写真の如く、私のアパートの屋上にはあらゆる衛星に向けたパラボアンテナが設置している。これは私のアパートが特殊であるからではなく、ほとんどのアパートや場合によっては一軒家においても同様の措置がされている。参考までに、私のアパートには、HOTBIRD、ASTRA,TURKSAT1C,NILESAT,HISPASAT1C-1D等の衛星信号を受信することが出来る。

チュニジアでは、テレビ視聴を可能にするセットトップボックス装置を利用して、年間100TND(5400円程度)を支払えばアクセス可能な衛星の有料チャンネルのほとんどを視聴することができるという。これは巷に徘徊しているテレビ業者がスクランブル解除情報をプログラミング・入力後、セットトップボックスのスロットに挿入しているからである。これはチュニジアにおいても違法なのかもしれないが、多くの家庭において公然と実施されており、事実上、摘発することは不可能になっている。これは北アフリカや中東の他国においても同様の状況のようだ。

私の場合は無料放送しか受信しておらず、スクランブル解除は行っていないが、それでもCNN、BBC、アルジャジーラ、NHKWorld、フランス24等を含む百程度の番組を無料で視聴することが可能である。おそらく、スクランブル解除を行えば、複数の衛星から600番組以上のアクセスは可能であろう。チュニジアは北アフリカに位置するが、地理的にはヨーロッパに近く、中東にも文化的にも距離的にも近く、上述したように多数の衛星にアクセスする事が可能であり、まさに『衛星天国』なのである。また、チュニジア人はアラビア語が母国語であり、フランス語に長けており、そして若いジェネレーションは英語も話せる。更に高等教育を受けている層が厚く、情報収集力が高いことは間違いない。多くの衛星放送にアクセスして、情報を得ていたチュニジアにおいて、「アラブの春(The Arab Spring)」が始まったのは納得できる。

アフリカ・ネーションズ・カップ(CAN)


先週より、南アフリカにおいて『アフリカ・ネーションズ・カップ(CAN)2013』が開催されている。

CANはアフリカのナショナルチームのチャンピオンを決める大会で、アフリカ諸国にとってワールドカップに次ぐ重要な大会である。CAN優勝国はコンフェデレーションカップへの出場権が与えられる。

2年に1回の開催で、昨年の2012年までは遇数年に開催されてきたが、今年の2013以降は奇数年開催に変更となった。つまり、幸運な事に、今年は、“2年連続”してCANを見られることになったのである。

昨年のCAN2012は、私にとって、アフリカ移住後の初のCANであったが、その盛り上がり方には圧倒させられた。チュニジア人はあらゆるカフェにて絶叫しながらテレビ観戦をしているし、アフリカ人の同僚達も、母国の試合の度に一喜一憂して母国のチームを見守っていた。夜間に行われていたゲームの時にはゴールが起きる度に、町中から、“ウオー”という音がこだまして響き渡り、引っ越したばかりの頃は、状況が理解できず、アパートから近所のカフェに何が起こっているのか聞きに行ったほどである。

昨年の『サンビアVSコートジボアール』の決勝戦は確か土曜日であった。アフリカ人の同僚が大会場を借り切って、試合(テレビ)観戦をしようとアレンジをしていたが突然キャンセルとなった。キャンセルの理由は未だに不明であるが、もし行われていたら、その熱狂ぶりはすざましかったであろう。まさか、両国の友人同士で怪我人が出ることを恐れてキャンセルしたのではないだろう。。

CAN2013は開催国の南アフリカと予選を通過した15ヶ国の計16ヶ国が競う。A~D各グループに分かれ、上位2チーム(計8チーム)が決勝トーナメントに進出することになる。優勝候補はザンビア、コートジボアール、ガーナであるという。

本日(1月27日(土))は、チュニジア人の友人たちとカフェで『チュニジアVSコートジボアール戦』を観戦したが、これはチュニジア人にとっては不本意な結果となった。コートジボアールに3対0で負けてしまったのである。ちなみにコートジボアールのFIFAランキングは14位、チュニジアは53位である。(ご参考までに日本は21位。)

中央はウサマ・タラギ選手
(カルタゴ国際空港にて)
試合の展開はややコートジボアールが押していた展開であったが、両チームともパスが流れるようなゲーム展開ではなかった。どちらかというと、両チームとも、個人の能力に依存する印象を受けた。特にコートジボアールの選手の身体能力は高かった。ヤヤ・トゥーレ(マンチェスター・シティFC所属)が2点目に右足で振りぬいたミドルシュートは見事であった。さすが、2年連続アフリカ年間最優秀選手である。ちなみに、有名なディディエ・ドログバも健在であった。2010年ワールドカップ直前の日本との強化試合で田中マルクス闘莉王と接触して右腕を骨折したのは記憶に新しい。チュニジアのチームでは、ウサマ・ダラギ(MF)が司令塔として活躍していたが、得点を挙げることができず残念であった。ちなみに彼とは10月にカルタゴ国際空港で話をしたことがあり、一方的に親近感を感じている。

両者はグループDであるが、コートジボアールはトーゴ戦に続いて2勝目、チュニジアはアルジェリアには勝っているのでこれで1勝1敗である。チュニジアも残りのトーゴ戦で結果を残せば、十分決勝トーナメントに行く可能性がある。まだまだチュニジアには諦めて欲しくない。『Allez-y, Tunisie!!』。
 

2013年1月25日金曜日

The Quest (エネルギー安全保障)

先週の1月16日に勃発したアルジェリアにおける人質事件で、石油市場は反応した。18日のニューヨークのNYMEX(マーカーンタイル取引場)では石油価格が1.25ドル上昇し、95.49ドルになったという。石油の価格は様々な要因によって変動する。石油の需給のみならず、国際政治、紛争、金融政策、テクノロジー等様々である。

著名な石油専門家ダニエル・ヤーギン氏が著述した『The Quest』はまさに、エネルギーを安全保障や近代社会の発展という視点で、幅広い議論を展開している。昨年の秋にドバイの空港で買った本であるが、やたら長い本あった為、途中でほったらかしていたが、最近ようやく主要なところを読み終えた。面白い内容と思った一部を紹介する。

ヤーギン氏は冒頭にて世界でおきた二つの事象を紹介している。まず、2011年3月11日に発生した『東日本大震災』である。地震やそれに伴う津波によって、東北のインフラは壊滅的な打撃を受けた。津波は福島第一原子力発電所に及び、その後の発電所の事故が日本における電力供給に大きな影響を与えた。現在、原子力発電力の政策等については世界の注目が集まっているところである。

その数か月前に北アフリカでは全く違う危機が起こっていた。『ジャスミン革命』である。チュニジアのSidi Bouzidという町で、ある青年が警察による嫌がらせに対して焼身自殺事件を起こしたことに端を発し、反政府デモが全国に拡大した。その後の民主化の動きは、携帯、電話、メール、更には、Facebook、Youtube、Twitter等のソーシャルメディアを通じて人々に伝送されていった。2011年1月14日、ついに23年間続いたベンアリ政権は崩壊する。更に民主化運動は北アフリカや中東に拡大し、リビアでは市民戦争に発展し、カダフィー政権も終焉を迎える。リビアの石油生産が激減したのは記憶に新しいところである。

この二つの出来事は、地球の異なる場所で起きた無関係の事象に見えるが、エネルギー市場においては関連性が深いとダニエル・ヤーギン氏は指摘している。私は2011年5月の1週目と2週目にチュニジアの革命の中心地と、東北の被災地に訪問し、二つの場所における危機の余韻を感じ取った。現在のグローバル社会は人や、情報、経済を含めて全て繫がっており、お互いに様々な影響を与えているのは間違いないであろう。

ヤーギン氏はアルカイーダの戦略についても述べている。1996年にOsama bin Ladenは『聖地を占領する米国人に対する宣戦布告』にて、『中東の石油設備を攻撃するように』と主張。アメリカの経済を破壊する為である。2005年にはアルカイーダNo.2であるAyman al-Zawahiriが、ジハード(聖戦)の民兵に対して『攻撃の対象はムスリムが盗まれた(外資系)の石油設備に限定する』と述べている。2005年9月にアルカイーダがサウジアラビアの石油施設を襲撃した際には、攻撃対象である各国の外資系の石油設備に関する詳細な地図や図面が残されていたという。大変残念であるが、今回の『アルジェリアの外資系(BP)ガス設備』に対する襲撃も、この戦略の延長線上にあるのかもしれない。

最後に、ヤーギン氏はエネルギー安全保障の大きな柱は『節約』であると指摘している。エネルギー効率の活用はエネルギー安全保障を確立する上で重要なカギであると強調している。これは乗り物や機械の省エネについてのみならず、人々の日々の行動を指す。ヤーギン氏は本の中で、この行動について『Mottainai(もったいない)』という日本語を使って説明している。日本でお土産でもらった包み紙を何回も利用して節約することを紹介している。英訳は『Too precious to waste』としていた。
 

2013年1月24日木曜日

米国大使館・スクールへの襲撃(2)


2012年9月14日に発生したチュニジアにおけるアメリカ大使館及びアメリカンスクールへの襲撃から、4か月以上が経ったが、あの時、何故このような暴動が起こったのか振り返ってみたい。

チュニジアにおける襲撃は、カリフォルニア州で作成された映画が『イスラム教の預言者を侮辱している』という大衆感情から火がついたことを述べた。しかし、これらの暴動の動きは、民衆により自然的に発生しただけではなく、指導者が扇動した結果であるということを指摘せざるを得ない。

9月14日(金)のアメリカ大使館襲撃の際には、暴徒化したデモが大使館内に侵入し、アルカイダの黒い旗を高々と掲げた。

Al-Qaeda-flag-Tunisia.jpg
9月14日アメリカ大使館
 
金曜日はイスラム教徒にとっては特別の日であり、義務(ファルド)としての集団礼拝の日である。米国大使館襲撃は、チュニスにあるモスクにて、一人の男が支持者達を高揚させるスピーチを実施し扇動していったといわれる。その男の名前はSeifallah ben Hassine 又はAbu Iyad al Tunisi(以下“ハッサン”)という。大使館へのデモの呼びかけはブログやFacebook等で散りばめられ、アメリカ大使館襲撃の動きが一気に広まったとされる。

アメリカ政府と国連によると、ハッサンはアルカイーダの組織で長らく活動しており、2000年にTarek Maaroufiと共同でTunisian Combatant Group(TCG)を創設する。TCGはアルカイーダと協調路線を歩んでいたとされ、ヨーロッパにも活動拠点があったとも言われる。 国連のレポートによると、ハッサンは2001年9月11日の前にOsama bin Laden とAyman al Zawahiriと会っている事が指摘されている。現在でも同グループの最低5人はキューバのグアンタナモにて服役しているという。

ハッサンはベンアリ時代にはチュニジアで服役をしていたが、革命後、多くの政治犯と同じく釈放されてる。2011年4月、同氏はAnsar al Shariaという新たな組織を設立する。この組織の特徴は、ソーシャルメディアを最大に活用し、ブログ、Facebook、雑誌にて民衆にシャリアの正当性をアピールするこどである。同グループは2012年にケロワンにおいて全国会議を開催し、チュニジアのメディア、教育、観光や商業セクターがイスラム化することを呼び掛けている。9月14日の米国大使館襲撃以降、チュニジア政府はハッサンを指名手配しているが、アルジェリアとの国境に潜伏しているという噂もあり、未だに逮捕はされていない。イスラム過激主義派は近隣諸国で連携を取りあっており、ハッサンの存在は不気味である。

私は日頃、外国人との関係において、イスラム教徒の感情は、日本人の愛国心に似ていると思っている。様々な宗教が混在する日本と異なり、チュニジアは99%がイスラム教であり、一神教である。故に、イスラム教徒であることは、彼らのアイデンティティーそのものに他ならない。イスラム教が侮辱されることは、彼らのアイデンティティーが侮辱されることと同じである。故に、今回の映画で見られるようなイスラム教が冒とくされるような出来事が起きると、客観性が失われ、また、モスク内での集団心理で気持ちが高揚させられ、いとも簡単に扇動させられてしまうのかもしれない。

ベンアリ政権においては、チュニジアはイスラム過激派は抑え込まれており、非宗教(Secular)的な国家運営をしてきた。現在は連立政権の最大与党はイスラム教を支持母体としたエンナハダであり、穏健主義といえども、非宗教的な運営は望めない。宗教的に大きな揺れ戻しが来ていることは否めない。

9月の襲撃事件は、今後、チュニジアの経済に悪影響を及ぼすことは間違いない。チュニジアにおける民主主義の発展をも後退させた事件である。映画を作成した米国人と、大使館やアメリカンスクールとは全く関係がない。多くの若者が扇動者に操られた結果である。今振り返ると本当に残念でならない。

米国大使館・スクールへの襲撃(1)

2012年9月14日(金)はチュニジアの歴史の中でも汚点となる日であろう。何百人というチュニジア人のデモが米国大使館に向かい、外壁をよじ登り、投石をし、火炎瓶を投げ、窓ガラスを破壊し、車両や建物を放火したのだ。暴徒化した一派は米国大使館のみならず、近くの街道を超えて、アメリカンスクールに向かった。スクールバスを放火するのみならず、建物にも侵入し、価値のあるものを略奪していった。
 
あの日は『何かが起こるであろう』と同僚の間で噂になっていた。イスラム国で暴動が起きるのは必ず金曜日である。モスクでの礼拝後に、高揚した人々が暴徒化したのは予想した通りであった。
   
この一連のイスラム諸国における暴動の動きは、カリフォルニアで作成された映画が『イスラム教の預言者(Prophet)を侮辱している』という大衆感情から火がついた。9月11日(火)にリビアのベンガジにおいて、米国大使をはじめ3人の大使館関係者が殺害された。翌日9月12日(水)、チュニジアの米国大使館においてもデモが発生する。同日18:30頃に私は現場を訪れた。大使館前の道は閉鎖されていたが、裏道で辿り着けた。辺りは既に暗くなり始めていた。デモは警察に鎮圧されていたが、現場は野次馬とメディアでごったがえしていた。話を聞いたところ、暴徒したデモは投石を行い、警察が催涙ガスを使用して沈静化したようだ。

(勤務先から撮影、奥の黒煙は
米大使館からのもの。)
9月14日(金)を目前として様々な噂が飛び交っていた。チュニジア政府が戒厳令が出すのではないかとか、会社が半休になるのではないかという噂である。同日は、通常勤務であったが、午後になって米国大使館で何百人というデモが勃発したというニュースが入ってきた。『やはり起こったか』というのが正直な感想である。その後、しばらくして、同僚が『アメリカ大使館の方角から黒煙が上がっている』という。ビルの屋上に上がってみた。はっきりと黒煙が舞っているのが見えた。勤務先は米大使館より10数キロの離れている場所にあるが、単なる催涙ガスにしては黒煙の量が多すぎる。『何かが起きている』事を察した。

メールやインターネットから様々なニュースが入ってきた。暴徒化したデモはアメリカンスクールにも向かったという。既に時刻は夕方近くになっていた。自宅に帰る為には米国大使館裏の街道を通らなければならないが、街道は閉鎖されているという。迂回すると交通渋滞で相当な時間がかかる。しばらく会社で待機していたが、結局、19:00前に会社を出た。正直、身の危険を感じたのを覚えている。当時の残したメモによると、『アメリカ大使館裏の街道を通ったが、相当量の黒煙が舞っていた。大通りにはおびただしい投石されたあとがあり、デモのすさまじさを感じた。』と記されている。大使館とアメリカンスクール間の街道には橋があるが、橋にはイスラム過激者(サラフィスト)の旗を掲げたデモの一派がまだ残っており、不穏な雰囲気が漂っていたのを覚えている。自宅でFrance24のニュースを見て、デモと警察の衝突で数人の死者が出た事を知った。


 
翌日にアメリカスクールに訪問してみた。この学校は夏休みに家族と共に見学に来たばかりである。将来娘が通う学校として考えていたからである。多くの友人の子女もこの学校で学んでおり、他人事と思えなかった。(ちなみに14日は、午前中で学校が終わり、先生や生徒に被害はなかった。)中に入ってみて愕然とした。バスや車両のみならず建物も燃やされていた。この学校はチュニジア人も含めた世界各国の子女が通っている。暴力行為が映画とは無縁の教育の場まで及んだことは許しがたい行為である。
 

海外プラント業界の“侍”たち

アルジェリアの東部のイナメナスのガス施設にて起こった人質事件は最悪の結果となった。今日まで、アルジェリアの石油・ガス産業に多大な貢献をしてきた日揮の方が犠牲になってしまった。本当に残念でならない。犠牲になった方々には心よりご冥福を祈りたい。

アルジェリアで日揮は1960年代後半から製油や天然ガスなどのプラント建設に携わってきたという。私がかつて勤めていた商社は、歴史的にも日揮と付き合いが深い会社であり、同社のアルジェリアにおける突出した貢献度は常に聞かされていた。私のかつての直属の上司は80年代に3国間取引で旧ソ連のパイプをアルジェリアに輸出したこともあり、取引先である日揮の方とは懇意の仲であった。

入社数年後の90年代半ば頃だろうか。私はアルジェリアで活躍した同社の方々と何回か打ち合わせをさせて頂いたが、その方々の海外の現場で鍛え上げられた独特の雰囲気には圧倒されたものだ。砂漠でスクラッチから建設をするプラントはまさに自然との闘いであろう。50度に及ぶ気温、道路建設、住居作り、電気敷設、水の確保等、想像するだけでめまいがする。

当時のアルジェリアは内戦の真っ最中であり、日揮も含めて日本企業は同国から撤退せざるを得ない状況であった。スーツを着ていた日揮の方々であるが、本来ならば海外で現場の仕事をしている方が生き生きとしているのだろうと感じた。

ちなみにアルジェリアにおける日本人に対する評判をすこぶる良い。2005年にアルジェリアに通信の仕事で訪問した際には、取引先から日本人ということで大歓迎された。『日本人は勤勉で誠実であるから信頼できる』という。『日揮を始めとした日本企業がアルジェリアを大切にしてくれたから』というのが理由だそうだ。現在の私のアルジェリア人の同僚も、最初に会った日に『アルジェリアにとって日本は特別な国である』と話してくれた。これも日揮の方が築き上げた日々の積み重ねの結果に他ならない。

私はインフラやプラント関連の仕事をしてきており、海外の方から日本人について色々な意見を聞くことが多い。しかし、今まで、日本人と仕事を共にした海外の方から、日本人の悪口を聞いたことはない。利益一辺倒の考え方とは異なり、日本人がその国の発展を思い、国際協力という使命感と共に仕事をしてきたからではないか。一部の国とは異なり、現地の人を大切にし、技術移転を行ってきた結果であると思う。

アルジェリアに思いを馳せる日本のプラント業界の人は多い。何故、アルジェリアの事を想い、そして貢献してきた同胞がこのような悲惨な運命にあわなくてはならないのか。日本人がアルジェリアを搾取しようとする意図などあるわけがない。卑劣な手段を使ったテロリストに対して改めて憤りを感じる。
 

2013年1月22日火曜日

マリ共和国の軍事紛争(2) トゥアレグ族とイスラム過激派

アンサールディーン指導者
Iyad Ag Ghaly
『マリ共和国の軍事紛争(1)』において、トゥアレグ族中心のアザワド解放民族運動(MNLA)及びイスラム過激主義武装組織の活動について述べた。軍部のクーデター後、2012年4月にMNLAは北部の独立宣言したが、その後、トゥアレグ族から、権力がイスラム過激主義武装組織に移行したという内容である。

ここで権力がMNLAからイスラム過激主義武装組織に移った背景について説明したい。ちなみにMNLAから実権を奪ったイスラム過激主義武装組織は200~300人に過ぎないという。

まず、トゥアレグ族はベルベル系の遊牧民であるがアフリカに約2~3百万人程存在し、中央サハラ並びにサヘル(サハラ砂漠南部地帯)を中心に活をしている。その多くはマリに居住しており、その数は80万人程度であるという。1960年にマリがフランスから独立して以来、トゥアレグ族による反乱が5回発生している。ニジェールでは反乱が3回、アルジェリアでは散発的に社会不安が生じているという。

直近のMNLAの反乱は2012年の1月にマリにて勃発している。MNLAの大多数は2011年の10月にリビアから戻ってきた兵士達であり、その総勢は約3000人といわれる。2012年3月、MNLAは政府の軍隊をマリの北部から駆逐する。マリ政府軍の武器は老朽化しており、政府軍は殆ど抵抗もなく撤退したようだ。実はマリの軍部による政府転覆のクーデターは、このMNLAの事件が発生した後の3月22日に起こっている。MNLAによる反乱後、軍部は政府に対してMNLA対策として武器の充実を求めたが拒否をされた為である。MNLAはこの軍部のクーデターに乗じて、1週間以内に北部のKidal、Gao、Timbuktuを掌握し、4月5日にアザワドの独立を宣言する。

しかしこの独立は国際社会の支援を得られなかった。その理由はMNLAはアンサールディーン(Ansar Al-Din)並びにMovement for Unity and Jihad in West Africa (MUJAO)と同盟を結んでいた為である。アンサールデーンとMUJAOも、イスラム過激主義武装組織であり、アルカイダ系の「イスラム・マグレブ諸国のアルカイダ(AQIM)」に支援されている。

2012年の5月より、イスラム過激主義武装組織(アンサールディーンとMUJAO)がアザワドにおいて、MNLAから政治的及び軍事的な奪取を試みる。6月にはMNLAとイスラム過激主義武装組織の対立が拡大し、戦闘が開始された。結果としてMNLAは北部の町のGaoから追放され、政治的にも影響力が限定された。その後、イスラム過激主義武装組織はKidal、Gao、Timbuktuにおいてシャリア(イスラーム法)を強要するようになる。昨年の8月までに50万人が町から逃走したか、殺害されているという。現在、即決死刑、切断、投石死刑等の残虐行為が国際刑事裁判所にて調査されている。

このアザワド解放は部族問題に限定されず、宗教や、近隣諸国との関係とも複雑に絡んでいる。このイスラム過激主義者自身も民族的にはトゥアレグ族である。しかし近隣諸国のイスラム過激主義者(サラフィスト)やアルカイダと連携しているのが問題を複雑化しており、外国人には解りにくいところである。

少し話がそれるが、私の同僚のニジェール人は母親がトゥアレグ族であるが、サブサハラのアフリカ人とのハーフなので見かけは解らない。宗教もイスラム教徒とは無縁である。同僚(女性)はアルジェリア人であるがベルベル人である(トゥアレグ族もベルベル系)。パリで教育を受けたのでフランス語はNativeであるが、実家ではベルベル語を話すという。イスラム教徒であるがシャリアとは縁もなく、普通にワインも飲むし、ファッションも欧米人と変わらない。アフリカは民族問題が大きな問題であるが、しかし、民族でステレオタイプ的な判断ができないのも複雑なところである。

フランスは既に軍事介入を始めたが、この問題は長期化及び泥沼化するような気がしてならない。第二のアフガニスタン、イラクになることを避けるためにも、アフリカ諸国と共に解決のスキームを検討するべきである。

 

2013年1月21日月曜日

チュニジア人の親切さ


Photo: Homemade food in Tunisia is wondeful. The picture shows different kinds of salada mechouia, tajine and fried potatoes. After this, pasta, beef steak and custard pudding was provided. Thanks so much Ala & Iyah's family. Today will be an unforgettable day.チュニジアに住んで1年以上になるが、チュニジア人のフレンドリーさに助けられている。それを紹介したいと思う。

まず、チュニジア人は日本人のように恥ずかしがり屋ではない。知っている間柄になれば必ず声を掛けてくるし、人懐っこく接することに躊躇しない。日頃、私が付き合っている友人は、欧米人やサブサハラのアフリカ人の同僚達が主であるが、最近は仕事とはまったく関係ないチュニジア人の知り合いも増えてきた。

私は、今まで、オーストラリア、メキシコ、アメリカに住んだ事があるが、どの国にいても、多かれ少なかれ外国人に対する差別というものが存在した。特にオーストラリアの高校に留学中は、学校で唯一の有色人種だったという経験をしたこともあり、私は差別や偏見に対しては多少敏感な方である。しかし、私の感覚ではチュニジアは日本人に対する偏見はほとんど存在しないと思っている。

チュニジア人は日本通でなくても、日本が先進国であることは知っているし、日本人が礼儀正しく、勤勉で、教養のある国民であると思っている。多くのチュニジア人が日本人と友人になりたいと思っているのは間違いないであろう。こちらが友好的に接すれば、相手も同様に対応してくれるのは嬉しいところである。また、買い物の際は、店員等と気軽に話をする事もできるし、飲み屋に行けば、色々な人が話かけてくる。このあたりのオープンな文化は日本のどちらかというと恥ずかしがり屋で少し閉鎖的な雰囲気とは異なる。

昨年までフランス語を教わっていたチュニジア人の先生には自宅では何回もご馳走して頂いたり、近所のA君のご家族には、時々チュニジア料理の差し入れを頂いている。A君は学校の音楽の先生であり、偶々、バスの停留場で知り合いになった。彼とは近所のカフェでサッカーを見たりお話をする仲である。彼は私より20歳近く若く、私はどちらかと言うとA君の両親の方に年が近いが、年齢に関わらず、彼は私を友達と思ってくれているし、私もそう思っている。ちなみに、10年程前、彼は家族とともにチュニスに駐在していた日本人に親切にされ、日本人に対して親近感を持っているという。当時、その駐在員とは言葉があまり通じなかったらしいが、『碁』を教えてもらった良き思い出があるという。

正直、チュニジアの外食にはあまり感動しないが、A君の自宅でご馳走頂いたチュニジアの家庭料理は素晴らしいと思った。上記の写真はA君の家でご馳走になったサラダ・メシュエア、卵料理のタジン、フライドポテトである。この後、パスタ、牛肉、カスタードプリンも頂いた。日々生活をする中で、チュニジア人のフレンドリーさには助けられている。改めて感謝したい。
 

洗車(チュニジアの物価)

昨日、久しぶりに洗車を行った。近所のShellのガソリンスタンドで、最新と思われる洗車の機械を見つけたからである。

チュニスは道路の舗装が不完全であったり、下水の完備がされていない為、数日運転すると、車が埃と泥だらけになる。特に私が住んでいる地域は新興住宅街であり、道路の整備が行き届いておらず、雨が降った日には道が洪水のようになる。以前はオフィスの近くの駐車場で3ディナール(約160円)を払って、手洗いで洗車をしてもらっていたが、数か月前にオフィスの引っ越しと共に洗車する機会を失っており、車が見るに見かねない状態となっていた。

洗車は見ているだけで楽しい。以前住んでいたアメリカのガソリンスタンドでも、ガラスで覆われている場所で、自分の車が洗車される工程を一部始終見ることが出来た。一月に1回は洗車に行って、コーヒーとお菓子を食べながら自分の車が洗われる姿を見ていたものだ。

チュニスのガソリンスタンドでも、車が入る場所から洗車される状態が観察できた。物珍しげに観察している私に従業員がフレンドリーに話かけてくる。いつも、このチュニジア人の明るさに助けられている。『鳥の糞は車の塗装に悪いので毎週洗車すべきだ。』とかたわいもない話であるが、このような機会がフランス語の会話の練習にもなっている。

まず、従業員が圧力の強いホースで、タイヤや窓の汚れてる部分を洗い流す。タイヤの周辺から流れる泥の多さから汚れが再認識できた。その後、車が機械に入り、水を浴びせられ、風の圧力で水を拭き取る。機械が車にぶつかるのではないかと思うほど、繊細にフロントガラスの直前まで近づき、風を浴びせるのはアメリカの洗車の方法と同じであった。わずか10分程度たった後であろうか。車の外観は見違える綺麗になっていた。その後、従業員が車を別の場所に移し、マットレスを取り出し埃を落とす。車内も小さな掃除機で清掃してもらった。作業時間は20~30分ほどであろうか。仕上がりは大満足である。

別の場所にあるレジで値段を聞いて驚いた。外面の洗車のみの場合は5TND(約270円)、車内の清掃も入れると6TND(約320円)という。確かアメリカでは30ドル(当時の金額で約3600円)位取られていた記憶がある。また車内の清掃はほとんど人件費であるにも関わらず、差額がたった1ディナールであるのは驚きである。30分程度働いて人経費が54円ということになる。

ちなみにチュニジアは人経費が安い、散髪も30分ほどで5TND(270円)程度である。1ヶ月の平均給料は警察官が350~400TND、看護婦が500TND、学校の先生が600TND程度である。物価は安いがこれらの給料は生活をするのに充分とは言えない。ちなみにチュニスの2LDKの家賃は最低でも400TNDがかかる。(参考までに私の2DKの家具付きアパート(ほぼ新築)の家賃は外国人としては格安の800TND(4万円強)。)客観的に考えても、一般の給料では共働きでない限りはチュニスでまともに生活をするのは大変である。チュニジアで社会不安が起こっている背景がよくわかる。

車がピカピカになったのは嬉しかったが、同時にこのようなサービスが従業員の低賃金に支えられて成り立っていると考えると複雑な気持ちになった。私の場合は日本で育ち、今のところ家族揃って健康に生きてる。娘に対して教育を与えられている現在の状況に感謝しなくてならないとも思った。
 

2013年1月20日日曜日

マリ共和国の軍事紛争(1)

Photos: Mali military braces against Islamist insurgents1月16日に起こったアルジェリアのイナメナスのBPのガス関連施設におけるテロは「イスラム・マグレブ諸国のアルカイダ(AQIM)」による犯行であるが、犯行の動機はフランスがマリに対して軍事介入し、アルジェリア政府がフランスへ協力した為であると言われている。

CNNによると、本日(1月20日)、フランスと西アフリカの指導者はコートジボアールのアビジャンにて会議を開催し、西アフリカの諸国はマリに軍事介入しているフランス軍を支援することを約束し、早急に軍隊を派遣する方法について議論したようだ。現在、フランス軍はマリに2000人派遣されており、西アフリカ諸国経済共同体(ECOWAS)は3300人の部隊を準備しているようである。

フランスは約1週間前にマリに軍事介入した。イスラム過激主義武装組織が首都のBamakoに入り込む事を防ぐためである。フランスとマリの軍隊は19日(金)にマリの中心部にあるKonna(首都より北東700KMに位置)をイスラム過激派より奪回したという。フランスは同時に他国の主導者に対して軍事的協力の早急な決断を求めている。

マリは1960年のフランスからの独立以降、干ばつ、軍事独裁、トゥアレグ族中心のアザワド解放民族運動(MNLA)との闘争により、困難が続いてきたが、1992年に初の民主的な選挙が行われ、その後、民主主義が発展してきた。ところが、2012年3月に不満を募らせていた兵士によりクーデターが発生する。不満の理由はMNLA対策として政府の軍部に対する支援が十分でなかったためである。しかし、その際に制裁を課したECOWASとの制裁解除を引き換えに、大統領の地位をトゥ―レらトラオレ国会議長に移譲することで合意し、マリはクーデターのわずか発生後22日で幕を閉じ、民政に復帰した。

一方でMNLAは2012年1月から北部で反乱を起こし、2012年4月に北部の独立宣言を行う。この背景には、2011年のカダフィーの殺害後、リビアの混乱に伴い武器がマリに流れ、MNLAはその武器を利用してマリ政府と対峙することが可能になった為である。実際に多くのトゥアレグ族はカダフィー側を支援して戦ったという。その後、トゥアレグ族から、権力の移行がイスラム過激主義派に移ってく。イスラム過激主義派は部族を支配し、フランスの国土と同じ広さであるマリの2/3を支配するようになる。

今回のフランスによる軍事介入はイスラム過激主義派の勢力が拡大しないように行ったものである。問題を複雑にしているのはイスラム過激主義者(サラフィスト)はアルカイダと繫がっており、アルカイダが今回のアルジェリアの誘拐事件で見られるようにマグレブ諸国で連携して活動を拡大していることである。アメリカの政府高官によるとリビアやチュニジア他2か国のアメリカ大使館への襲撃はアルカイダと強く結びついているという。

マリの問題も含めて、イスラム諸国の問題を、西側とイスラム国との対立構図にすると非常に厄介である。早急にアフリカ諸国と協力を行うことにより、アフリカの問題として解決しなければ、益々混乱に陥るような気がしてならない。

2013年1月19日土曜日

革命の季節(日本赤軍とパレスチナ)

『革命の季節』を読んだ。元日本赤軍の重信房子が医療刑務所で綴ったという本である。

この本をチュニジアで読むことは意義があることかもしれない。チュニジアは1980年代の一時期、パレスチナ解放機構(PLO)の本部が存在したところである。

私は1970年3月生まれであり、同月に『よど号ハイジャック事件』が発生した。その2年後には連合赤軍による『あさま山荘事件』が起き、警察が浅間山荘に突入する姿が全国に生中継されたという。しかし、私が物心がついた頃には国内の赤軍派はほぼ消滅しており、海外で活動していた日本赤軍の活動も衰退していた。従い、少年期における赤軍の記憶はほとんどない。わずかに、小学校の近くの交番で、国際指名をされたいた日本赤軍メンバーの写真を見ていたことや、図書館で過去の新聞の縮刷版から、よど号事件の記事を読んで驚いたことぐらいであろうか。

日本赤軍を意識し始めたのは何時ごろだっただろう。学生時代、欧州を旅行していた時に年上のバックパッカーから『日本赤軍が活発だった頃には、日本人がヨーロッパに入国する際には入念にチェックされた』という話を聞かされたことや、タイに旅行していた時にイスラエル人から『かつてテルアビブ空港で銃を乱射したJapanese Red Armyというグループがいた』と教えられ、平和な日本人とは異なるイメージを世界に植え付けた日本赤軍の存在を知り始めた。また、学生時代には、中南米の歴史の一端として、チェ・ゲバラの革命活動を学び、世界的な共産主義革命の背景について知った。その後社会人になり、文藝春秋等で様々な記事を読み、日本赤軍が海外で起こした事件については知識としては断片的に学んでいったが、敢えて海外で革命を起こそうとした動機や背景については正直あまり理解できていなかった。

私は20代の頃、日本の商社において、政府開発援助(ODA)のプロジェクトに携わった。1993年のオスロ合意の結果、パレスチナ解放機構(PLO)は武装放棄をし、イスラエルとの間にパレスチナ暫定自治協定が締結された。それに対応して、日本政府は1996年にパレスチナに対して2か国間政府開発援助を開始する。そのような背景から、私はパレスチナ自治区であるヨルダン川西岸の病院案件の担当となった。残念ながら現地には訪問できなかったが、入札に参加し、来日したパレスチナ人と協議を行い、エックス線をはじめとした様々な医療機器の輸送の手配をした。その病院は、現在でもパレスチナ人に『日本病院』と呼ばれ親しまれているという。パレスチナ人の政府高官とは数日において食事を共にしながら、パレスチナ建国についての夢を聞かせてもらった。

ちなみに年末、東京で『某アフリカの投資セミナー』を開催した際に、当時、イスラエルの駐在員で、その病院プロジェクトの現地担当だった先輩に偶然会った。15年ぶりの再会である。その先輩は2000年代にも再びイスラエルに駐在したが、その際にはヨルダン川西岸には入国できず、その病院に訪問することができず悔しい思いをしたという。

『革命の季節』では、重信房子が1972年テルアビブ国際空港作戦から40年たった今、奥平剛士・安田安之・山田修・檜森孝雄・丸岡修と闘った日々を語っている。日本における赤軍派の学生運動から、海外における闘争活動を実施するまで、当時の未熟な正義の心の在り様を綴っている。私はテレアビブ空港事件等で一般人をも巻き添えにした日本赤軍の活動に対して弁護するつもりは一切ないが、一方で、パレスチナ人自身が過去の歴史や、自治権が確立されていない状況に対して憤りを感じるのは当然であり、それに共感する気持ちは理解できる。

イスラム国に住み始めて感じた事は、アラブ人が西洋人に対して潜在的に持つ不信感は予想以上に深いということである。この感情が、昨年9月に発生したチュニジアを含むアラブ国諸国によるアメリカ大使館やアメリカンスクールに対する襲撃や、今週起こったアルジェリアのBPガス施設における誘拐事件に繫がっているのは事実であろう。私は、これらの事件を起こしたイスラム過激派の行為は卑劣であり、憤りを感じているが、しかし、この問題は西洋諸国がアラブ諸国を対等に扱ってこなかった長い歴史に起因するとも思っている。お互いの尊厳を認めて、対等に付き合える日がいち早く来ることを願っている。

2013年1月18日金曜日

アルジェリアの人質事件


1月16日より、アルジェリアの東部のイナメナスのBPのガス関連施設より、日本人をはじめ、イギリス人、米国人、ノルウェー人等が誘拐されている。アルカイダ系のイスラム武装勢力の犯行であると言われており人質となっている方の安否が心配である。

本日18日夕方のアルジェリアの国家テレビの報道によると、アルジェリアの治安部隊は掃討作戦を実施したが、空爆により4人の外国人が殺害され、13人が負傷したという。怪我人13人の内7人は外国人とのことだ。本日の日経新聞のオンライン版によると邦人が怪我をした可能性があることを報道しており、もしそれが事実であれば大変残念である。

今回のテロ活動はアルジェリアに本拠を置く国際テロ組織「イスラム・マグレブ諸国のアルカイダ(AQIM)」による犯行と言われている。その主犯格はMokhtar Belmoktarという男であるという。さて、このBelmoktarとは一体どのような男なのだろう。

Belmoktarは1972年のアルジェリア生まれ(41歳)であり、25万人の死者を出したアルジェリアの市民戦争に関わったテロリストである。1990年代にアルジェリア政府との争いで片目を失っており、"Mr Marlboro"と呼ばれている。 Belmoktaは19歳の時にアフガニスタンでアルカイダの訓練を受け、ロシアと戦った強者のようだ。アルジェリアの1991年の選挙では、イスラム原理主義党のイスラム救国戦線が圧勝したが、直後の1992年1月に世俗主義を標榜した軍部によるクーデターが起き、選挙結果は事実上無効になった。その結果に憤りを感じ、同氏は市民戦争に加わるようになる。その残忍さは伝説になるほどであるという。Belmoktaはまず、Armed Islamist Group (GIA)、そして、GIAから分裂したサラフィスト(イスラム過激派)グループのPreaching and Combat (GSPC)の主要メンバーとなっていく。後に両組織はAQIMに統合していったそうだ。

その後、BelmoktarはAQIMにおいて、アルジェリアとマリの間の砂漠地帯でのテロ組織を統率していく。最近は内部闘争において同氏はAQIMにおいて失脚したという説もあったが、今回、現時点でもAQIMにおいて影響力が強い事を証明したようだ。ちなみに、BPが保有する西側のガス施設を狙ったのは、フランス軍がマリに介入し、アルジェリア政府がフランスへの協力した事への報復との見方もある。

これは単なる一過性の事件ではないと考える。アルジェリアの大統領であるAbdelaziz Bouteflikaは自国の発展の為にはグローバルエコノミーの参入、特に西側との貿易が鍵であると信じているようだ。経済が発展する為には、今回のフランスのマリに対する軍事介入への支援は必要な手段であると考えているようだ。これから、西側、特にフランスとの協調は更に発展していくであろう。

Belmoktarは今後、西側の人間を引き続きターゲットにしていく可能性がある。チュニジアのサラフィストもアルカイダと連携していると聞いている。これらの活動がチュニジアにも拡大して、対岸の火事と言ってられなくなる事態になることは是非とも避けたいものである。
 

2013年1月17日木曜日

宗教

ブルーモスク/イスタンブール昨日、コートジボアール人の同僚と昼食に行ったときに、キリスト教会で洗礼の儀式(Baptism)に参加した話をしたところ、宗教の議論になった。
 
同僚はイスラム教徒であり、彼が毎週金曜日にはモスクに行くことは知っていた。コートジボアールの宗教の比率を聞いたところ、イスラム教徒の方がキリスト教徒より多いという。また、自然物を崇拝する土着の伝統宗教も存在するという。西アフリカでイスラム教がキリスト教より多いのは大変驚きであった。後で調べたところ、北部を中心にイスラム教徒が38.6%、南部を中心に32.8%を擁し、土着の伝統宗教が11.9%、無宗教が16.7%であるとのことである。

同僚の話で興味深かったのは、イスラム教徒も洗礼を行うが、キリスト教のように教会(イスラム教の場合はモスク)で儀式が行われるのではなく、自宅で洗礼が行われるという。また、キリスト教徒のように体を洗ったり、頭に水をつけたりする行為は行わず、証人の元でアッラーに忠誠を誓う儀式を行うとのことである。ちなみに洗礼の時期は生後1か月頃であり、それまでは名前は対外的には発表は出来ないとのことだ。イスラム教徒は生後1か月迄は“名無しの権平”であるようだ。

その後、彼から日本の宗教の比率や、私の個人の宗教について聞かれた。私は、日本は仏教徒、神道の信者が多く、キリスト教徒はわずかで、イスラム教徒はほとんどいないことを説明した。特定の宗教を持っていない人も多いとも伝えた。尚、比率に関しては正直分からないと回答した。

後で調べたところ、文化庁によると、日本の宗教の内訳は神道系が計約1億600万人、仏教系が計約9600万人、キリスト教系が計約200万人、その他が計約1100万人で合計2億1500万人となり、日本の総人口の2倍弱の信者数になるようだ。理由は神道と仏教にはキリスト教の洗礼のような信者とみなすための儀礼がなく、実数を把握することが困難であるからである。また、各宗教の神仏を同等に崇拝し、(儀礼上であっても)参加することから複数の宗教を(事実上)掛け持ちしているため、信者を単純合計すると膨大な人数となる為のようだ。

また、同僚の個人の宗教の質問に対しては、父親は仏教徒、母親は神道の家で育ち、私はキリスト教の学校で学んだが、私自信の宗教は、不可知論者(Agnostic)であると回答した。世の中には自分がコントロールできない人知を超えた現象が存在するとは思っているが、それを神と呼ぶのか、運命と言うのか、自然と呼ぶべきかは分からないと回答した。つまり、特定の宗教を信じているわけではないが、無神論者でもないことを説明した。

私は何かを信じるという行為は素晴らしいと思う。しかし、宗教を理由に人々が対立したり、争ったりするのが残念でならない。故にどこかで特定の宗教を信じたくない気持ちがある。イスラム教徒の彼にとり、特定の宗教を持たない私の考え方は理解されないと思ったが、『人知を超えた存在を認めるというのはいいことだ。素晴らしい考え方である。』と理解してくれたのは嬉しかった。同僚が示したように、宗教対立を回避する為には、自分の考えを人に押しつけるのではなく、相手の考えを尊重するのが第一歩だと思う。

2013年1月15日火曜日

アフリカのインフラについて

先日、日本に一時帰国した際に日本のインフラのレベルに感動したことをブログで述べた。電力、通信、ガス、水道、建物、交通網、宅急便等を含む輸送網のインフラが完璧に機能していたという印象を持った。確かに東日本大震災の際にその脆弱性が指摘されたり、笹子トンネルの事故で見られたように老朽化が進んでいたり、ばらまき公共事業によって、全体的な国家戦略に欠ける空港や港湾の設備等が増えた等の問題がある。但し、あくまで主観であるが、海外のインフラと比較すると日本のインフラは一流であると思われる。
 
あまりにも感動したので、チュニジアの友人に日本のインフラの素晴らしさと、その整備状況を説明し、チュニジアのインフラと比較するコメントをしたところ、『日本とチュニジアを比較しないで欲しい。チュニジアは未だに途上国でインフラを投資する財力も人材も足りない。』と機嫌を損ねられ、配慮が足りない発言をしたと思い反省をしている。
 
ちなみにサブサハラ諸国のアフリカのインフラはどのようになっているだろうか。少し紹介をしたい。『Africa Infrastructure Country Diagnostic』というレポートよるとサブサハラ諸国で最も問題なのは電力セクターであるという。サブサハラの48か国(人口約8億人)の発電能力はスペイン(人口45百万人)と同等に過ぎない。又、電力の使用量は1人当たり124KWhで、100Wの電球を1日3時間しか利用できない計算になる。道路も問題である。アフリカは広大な土地を有する大陸であるが、人口の1/3のみが1年間利用できる舗装道路の2km以内に住んでいるという。対照的に他の途上国の平均は人口の2/3が舗装道路の2KM以内に住んでおり、いかにアフリカの道路が整備が遅れているかがわかる。

また、同レポートによるとインフラのコストは他の諸国の2倍のコストであるという指摘もある。電力や物流等のコスト高によって企業の生産性が40%損なわれているという。更にアフリカのインフラの30%は既に老朽化しており、早急に改修する必要があるという。

これらの問題を解決し、必要なインフラを構築する為には継続的に年間930億ドル(※)の支出が必要となるらしい。(※中国の2000年代のインフラと同レベルを構築するという仮定。)これはサブサハラ諸国のGDPの15%に値する金額である。ちなみに現在インフラに支出されている金額は450億ドル(内訳:ODA、国際機関等60億ドル、民間セクター90億、公共セクター300億ドル)であり、約480ドルの資金ギャップが生じている。

それではどのようにしてこの資金ギャップを埋めればよいのか。各国の財政支出や2か国間等の援助には限界がある。解決方法は民間セクターの資金をもっと導入するしかない。アフリカがインフラを改善し、今後益々の経済成長を行うためには、更にPPP(官民パートナーシップ)等のスキームを利用して、民間のノウハウや資金の導入をすることが求められている。

『African Business』という雑誌によると、アフリカの2000年代の平均成長率は5.6%で世界の平均成長率の約2倍であったという。今後、中国等の経済成長に陰りが生じても、アフリカは継続して成長するという指摘もある。日本は1400兆円の個人資産がありながらも、成長率は止まったままである。殆どの個人資金は銀行や生命保険会社を経由して、1000兆円に昇る国債を支えているからであろう。低い成長に“ロックアップ”しているというのが日本の実情である。

実は一時帰国した際に某アフリカ向けセミナ―というところで同様の話をしたばかりである。アフリカが高い成長を継続していることを知らない日本人は多い。『若くて成長しているアフリカに投資をしませんか?』日本からの投資に是非期待したい。

※上記の衛星写真はヨーロッパと比較して、アフリカの電力利用がいかに少ないかを示したもの。

2013年1月14日月曜日

教会(キリスト教の洗礼)

IMG00195-20130112-1924.jpg昨日、友人夫婦の生まれたばかりの子供が教会で洗礼を受けるというのでその儀式とその後の食事会に招待された。友人夫婦とは数日前に同僚の家で知り合ったばかりのオーストリア人とメキシコ人のカップルである。

ちなみにチュジニアは99%がイスラム教徒であるが、若干のキリスト教やユダヤ教を信仰している人もおり、教会やシナゴーグも存在する。外国人の住民とヨーロッパやアラブ諸国の子孫からなるキリスト教のコミュニティーが存在し、その数は2万5千人程であるという。

昨日はSidi Dhriftという場所にある小さなカトリック教会で洗礼が行われた。洗礼とはキリスト教の入信に際して行われる儀式である。土曜日に訪問した教会は厳かな雰囲気であり、神父が洗礼に関して聖書の説明を行ったり、皆で洗礼の歌を歌ったりした。参加していた人は、ヨーロッパ人から、ラテンアメリカ人、それからアフリカ人と多様であった。神父は主にフランス語で儀式の進行を行っていたが、参列者の様子を見ながら時には英語やスペイン語を混ぜて説明を加えていた。ちなみに洗礼の方法は浸水(身体を水に浸す)または灌水(頭部に水を注ぐ)や滴礼(頭部に手で水滴をつける)によって行われるそうだ。昨日は神父が赤ちゃんに軽く水をつけており、滴礼で行われたと思われる。

私はキリスト教徒ではないが、高校の時はオーストラリアの英国教会の学校に留学して、毎日讃美歌を歌った。大学は日本のカトリックの学校に行き、外国から来た宣教師から直接、語学やキリスト教の授業を受けた。宣教師の先生は男女からなるスペイン人、アルゼンチン人、ドイツ人と様々であり、20年以上日本に住んで日本語が堪能な先生も多かった。結婚もせず神に自らの人生を捧げる宣教師の姿を目をあたりにして考えさせられることは多かった。昨日のSidi Dhriftの神父を見て宣教師の先生を思い出した。

皆で歌った曲は美しかった。フランス語の歌詞を渡されたので何とかフォローできた。最後には皆でそれぞれ握手をしたり、抱き合いながら、洗礼をした子供や家族と写真を撮ったりした。儀式の後は近くのイタリアレストランで食事をし、皆で子供の洗礼を祝った。子供のP君には今後の素晴らしい人生を期待する。久しぶりに教会で過ごし、心が洗われた一日であった。
 

2013年1月13日日曜日

アフリカの通信事情について(2)

『アフリカの通信事業について(1)』にて、サブサハラのアフリカ諸国はラスト・ワンマイルのアクセスの問題により、インターネット、特にブロードバンドの普及が進まないことを紹介した。それではどのような方法でアフリカにおいてインターネットを普及できるのであろうか考えてみたい。

過去10年でアフリカは携帯の普及は加速的に進んだ。Blycroft Publishingが発行するレポート によると、既に2012年2Qにおいて54国中の17の国が71%以上の普及率を達成しているようだ。セイシェル、ボツワナ、南アフリカ、モロッコ、チュニジア、ガボン、ガボンに至っては、普及率が100%以上となっているようである。現在、アフリカの多くの国では家族に一台の携帯を持っているのは当たり前になっており、今後は多くの国で一人が一台の携帯を持つ日も夢ではないだろう。

一方で、インターネットに関してはどうであろうか。ITUが発行しているKey 2000-2011 country data によるとその普及率は低い。2011年において、アフリカの多くの国は普及率が5%さえも達しない国が多く、上述した通信が発達している国の南アフリカでも21%、ボツワナに至っては7%とインターネットが普及していないことがわかる。

インターネットの普及率の低さの原因は、上述したラスト・ワンマイルのアクセスの問題によりADSLのサービスが供給されていない事や、移動体通信(携帯)に関してはGSM(音声電話)が主流の国が多く、携帯やスマートフォーンにてインターネットのサービスを享受できないことに理由がある。

それではどのようにしてインターネットを普及することができるのであろうか。私はアフリカのインターネット事情を改善するのにはLTEの導入が鍵であると思っている。特に3G(CDMA)の導入がされていない国は、2G(GSM)から4G(LTE)に一挙に移行することができる。テレビのアナログからデジタルの移行等も行われてない国が多く、今から適切な周波数を割り当てる事も可能である。

そもそもLTEとは何であろうか。LTEとはLong Term Evolutionの略であり、3Gから4Gの橋渡しを行う為に開発された移動体通信(携帯)の技術である、3.9G世代と呼ばれていたが、ITU(国際電気通信連合)が4Gと呼称することを認可した為、現在、多くの国では4Gと呼んでいる。多重方式は下りにOFDM(直行周波数分割多元接続)を利用している。ちなみに、CDMAはシステム帯域幅を可変できないが、OFDMは帯域幅を可変させることに対してはきわめて柔軟であり、技術的にOFDMのほうがCDMAと比べて同じ周波数帯域幅でも通信速度を向上させやすい。また、LTEは音声も含めて、全てIP信号が基軸となっている。GSMやCDMAと異なり、携帯電話、スマートフォーンを利用して、音声を含めてオールIPネットワークを実現することになる。何が言いたいのかというと、適切なLTEのネットワークを構築すれば、何処にいても、端末さえあれば高速のインターネットにアクセスする環境が整うということである。

今後はアフリカにおいてもスマートフォーンの普及が加速するであろう。サムソンによると、アフリカの普及率は6~8%程度であるという。About.comによると、現在、一番安いモデルで価格が100ドル程度であるそうだ。これが60ドル程度になればアフリカにおいても爆発的な広がりを見せると思われる。

LTEに関しては、アンゴラ、ナミビア、モーリシャス、南アフリカが既にサービスを開始している。今後はナイジェリアやエジプトもサービスを開始する予定である。スマートフォーンとLTEを利用すれば、インターネットのラスト・ワンマイルの問題は解決する。アフリカの友人が、携帯(音声電話)と同じく、いち早くインターネットが気軽に利用できる日が来ると期待している。

2013年1月12日土曜日

アフリカの通信事情について(1)

先日、一時帰国した際、日本のインターネット事情に感動した。特にブロードバンドのサービスレベルの高さとWIMAXとLTEの普及に関して目を見張った。日本に住んでいた時には有難みすら感じていなかったが、自宅のマンションのインターネットの速さに感激した。光ファイバーをマンションの住民全員で共有している形態となっているが、You Tube等の動画を見てもストレスを感じさせない。価格は管理費に含まれているが、確か1000円程度である。

私は日本で携帯電話を持っていない為、外出先で誰かとコンタクトする際に困ることがある。今回の帰国時には、幸運にも妻がWIMAXサービスに加入していた事により、外出する際はその端末を借りて、持参したIPadによりインターネットのアクセスやメールの利用が可能となった。地下で繫がらない事もあったが、それ以外はスピードも含めて満足であった。更に、外出先では、電車や駅で動画を見ていた人がいたのには驚いた。LTEを利用したサービスのようだ。既にNTTドコモの契約者は900万人を超えたという。日本における技術の進歩はすざまじい。まさに驚愕の事実である。

一方で、チュジニアは途上国の中では通信が発達している国であり、ITUが発行しているICT Indicatorsによると、2011年において固定ブロードバンドの契約者は54万人(人口約1000万人)存在しアフリカの中では普及率が高い。但し、日本と比べるとサービスのレベルは雲泥の差であり、インターネットでストレスを感じる事は多い。私は現在、Tunisia Telecomの8Mbps(※)のADSLサービスと、Orangeの3Gを利用した21.5Mpbs(※)の2種類のサービスと契約している。(※あくまでベストエフォートサービス。)ちなみに私の住んでいるアパートはチュニスの新興住宅地であり、新しいアパートが次々と建てられ、人口が急増している地区であるが、両方の契約とも、夜10時以降はYouTube等の動画はまず見られない。インターネットのアクセスも止まることが多々ある。恐らく住民で共有した利用した際に、帯域が十分足りないからであろう。

サブサハラの諸国においては更に状況は悪い。ほとんどのサブサハラ諸国はブロードバンドの普及率は数%に過ぎない。この数年は海底ケーブルのアクセスが改善し、多くの国において、国内のバックボーンの整備が進んだが、ラスト・ワンマイルアクセスの問題により、ブロードバンドの普及が進まない。多くの国でGSM(音声)の携帯は発展したが、ADSLや、3Gによるインターネットの浸透率は低いままでいる。

私はインターネットは、人々の情報アクセスの格差を解消する最もパワフルなツールと考えており、アフリカにおいてもあらゆる社会のレベルでインターネットが行き渡って欲しいと思っている。情報を入手したいという欲求は誰もが持っており、環境さえ整えばインターネットを利用するユーザーは増えるだろう。もともと、英語やフランス語を話す人口が多いので、情報収集能力も高いはずである。現在はアメリカやヨーロッパからの情報を得るのが主であるが、アフリカからの発信情報を世界中がアクセスする時代が早く来ればよいと心から思っている。
 

国際結婚

昨日、アメリカ人の同僚の家に招待された。理由は大家が“猪”の狩りを行い、そのおすそ分けをもらったが、肉が大量すぎて、食べに来てほしいという。奥さんの友人も来るという。

いままで、彼の家には何回招待されたであろうか。一緒に飲みに行った回数も数えきれない。年齢も近いし、お互いある程度の経験を積んで国際機関に来たことや、メキシコに住んだことがあるという共通点もあり、信頼できる友人となっている。『老け込むのはごめんだねと。』お互いスポーツに励んでダイエットしたり、いつも冗談を言ったりしている仲である。

会社が終わった後、シティ・ブ・サイードまで車を走らせ、彼の家に着いた。呼び鈴を鳴らすと、“ジー”という機械音とともに自動の扉があく。「Come in, man!!」、何時ものパターンである。カリフォルニア出身の彼は屈託のない笑顔で家に招いてくれた。

同僚の奥さんはメキシコ人である。奥さんには家に招待される度にご馳走になり、お世話になりっぱなしだ。まず、奥さんにご挨拶をする。挨拶は左と右の頬へそれぞれキスである。日本には無い習慣であるが、最近違和感が無くなってきているのは海外生活に慣れてきた証だろうか。13歳と、6歳の子供たちには日本から買ったプレゼントを渡した。その後、オーストリア人の訪問者にも挨拶する。その方の奥さんもメキシコ人であった。なんと生後4週間という赤ちゃんを連れてきた。オーストリアから旦那のお母さんと、メキシコから奥さんのご両親とその妹も来たので、同僚の家はメキシコ人でいっぱいになった。

最近、国際結婚や異人種間の結婚が増えており、昨日はその傾向を象徴するような場であった。同僚のアメリカ人とメキシコ人、訪問者のオーストリア人とメキシコ人の二組の国際カップルの家族と共に食事をしたが、皆のコミュニケーション能力には感銘を受けた。両方のカップルも、相手の母国語が堪能である。つまり旦那達はスペイン語が話せ、奥様方は英語やドイツ語を話すことができる。子供は更にすごい。同僚の子供達は瞬時に英語とスペイン語を切り替えられる。一方で、オーストリア人とメキシコ人の親通しは言葉がまったく通じない。赤ちゃんを見ながら身振り手振りでコミュニケーションを取っていた。

国際結婚や異人種の結婚は愛する相手に人生を捧げるのみならず、相手の文化や言語、生活様式にコミットする姿勢も必要となる。愛情があれば解決する問題でもない。相手の家族やバックグランドを理解するために多大な努力が要求される。また、親を含むお互いの家族間においても、時には様々な偏見と戦わなければいけないこともあるだろう。

2008年の夏にキューバに訪問した際、有色人種と白人のカップルから異人種結婚について面白い事を聞いたことがある。1959年のキューバ革命の前は、異人種の結婚はタブーであったという。その後フィデルカストロが有色人種に対する差別の撤廃や、社会的地位向上に取組み、現在は異人種間のカップルが珍しくないどころか、当たり前になっているという。米国においてもMelting Pot(人種の坩堝化)は進んでおり、異人種間の結婚は加速化している。今後、グローバリゼーションは更に進み、国境を越えた人との交流と共に国際結婚が加速するのは間違いない。

本日、“猪”の肉を生まれて初めて食べたが柔らくておいしかった。同僚によると、本来、猪の肉は堅いがオーブンで一日中ローストして柔らかくするという。あと50年位経つと、この猪の肉のように世界中の人種が坩堝化して溶け合う日が来るかもしれない。

近い将来、「貴方は何人ですか?」という質問はナンセンスになるかもしれない。「私は世界人です。」という回答が当たり前になるのであろうか。 

2013年1月9日水曜日

ジャスミン革命は何をもたらしたか

1月14日にチュニジアはジャスミン革命の2周年記念を迎える。2011年の同日、前大統領であるベンアリは国外に亡命せざるを得なくなり、23年に及ぶベンアリ独裁政権は崩壊した。

私はチュニジアに住み始めて1年3か月程になるが、最近感じるのは、当初来た頃よりも社会全体の雰囲気が悪くなってきていることである。安全であると思われていたチュニス周辺の治安も少しづつ悪化している気がしてならない。身近な例では、ダウンタウンにおけるデモや、町で起こる喧嘩、知人の空き巣に入られた頻度も以前より増加している印象を受ける。

失業率もベンアリが亡命した2011年1月時点の13%に比べて、昨年の12月時点は18%まで上昇しており、現在、75万人もの失業者が存在する。特に若者の失業が多く、対象の1/3は大学卒業者であるという。昼間にカフェで大量に見かけるほとんどの若者は失業者であることは間違いないだろう。当初予定されていた民主主義の工程も遅れている。現時点で、新憲法も最終ドラフトが出来上がっておらず、総選挙も早くても6月までは待たなければならない。

モルズ-キ大統領も、人民の期待に応えられていない事を認めているようだ。しかし、「チュニジアは岐路に立たされている。世界が注目している中、チュニジアは規範となる機会を失わないべきだ。」と民衆に対して懸命に問いかけている。残念ながら、9月に発生したサラフィスト(イスラム原理主義者)によるアメリカ大使館とアメリカンスクールへの暴動によって、海外投資家や観光客に悪影響があるのは必至であろう。

ジャスミン革命は人々に何をもたらしたのであろうか。人民は表現の自由、選挙権、そして民主主義を手に入れた。表現の自由を手にしたことにより、非難の矛先は政府や警察の権力者に対して公然と向けられている。しかし、民主主義の原点はルールのコンセンサスである。自由をはき違えると、そこで待っているのは混乱(Chaos)でしかない。現在の状況が悪循環に陥りそうであることは否めない。大変難しい状況であるのは重々理解しているつもりであるが、チュニジアの友人には、個人の利益よりも全体的な利益を優先するべく行動頂ければと切に願っている。