2013年12月28日土曜日

タクスイム広場におけるデモ  

イスタンブール新市街の中心地であるタクスィム広場。現在、ここにはクリスマスツリーが飾られ、そのイルミネーションが煌々と輝いている。 

金曜日の本日、夕刻時にその広場を横切ろうとした時のこと。警察隊が数十人単位で配備されている姿が見えた。明らかに重々しい雰囲気であり、異常事態であることを悟った。

その警察隊を迂回するように、広場から大通りに向かおうとしたところ、大通りにはデモ隊のような人々が見られ、救急車らしき車が数台止まっていた。 何が起きているか近くのトルコ人に聞いてみたところ、政治的なデモ隊と警察が衝突したという。少し遠方では、今まで見たこともないような青い花火がゆっくりと落下していた。近くではテレビ局のレポーターがカメラに向かって実況していた。事態は沈静化しつつあるようにも見えたが、私は家族に促されてホテルに戻ることにした。 

ホテルでインターネットにアクセスし状況を確認する。アルジャジーラの情報によると、デモ隊は閣僚の汚職事件に対して抗議し、警察隊がその拡大を阻止する為にデモ隊を広場から駆逐したという。BBCの情報によると、その過程で催涙弾や、水が放たれたという。私が広場に訪問する少し前の出来事であると思われる。また、青い花火はデモ隊によって投げこまれたことを知る。

トルコではエルドアン政権の閣僚の数人が、建設事業を巡る汚職事件に関与したとして、閣僚の息子など80人以上が拘束されたことに対し、政権側が警察の幹部らを更迭するなど報復とみられる措置に出ており、政治の不安定化が懸念されているという。昨日、エルドアン政権がそれに終止符を打つべく、閣僚3人の辞職を発表したようだ。本日のデモはその汚職に対する抗議のようである。 

2003年にエルドアン首相が就任して以降、イスラム教の伝統的価値観を重んじながら、経済発展が実現されてきた。しかし、今年6月にはその政治手法が強引だとして大規模な反政府デモが各地に広がるなど不満の声も上がっている。首相のイスラム化の動きに対して世俗主義による反発があるということであろう。 

これらの動きを受けて本日、ドルに対してリラ安となったようだ。そういえば、本日の午後、両替場にて、昨日、205リラ/ドルだったTTBが、212リラ/ドルとなっていた。リラ安の理由が気になっていたが、本日の一連のニュースを知って納得である。

いずれにせよ、年末のトルコにて、これ以上、状況が悪化しないことを祈っている。

【参考資料】
http://www.bbc.co.uk/news/world-europe-25525923
http://www.aljazeera.com/news/europe/2013/12/lawmakers-resign-amid-turkey-fraud-scandal-201312271460679884.html
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20131221/k10014015741000.html

2013年12月27日金曜日

イスタンブールの世俗主義 

クリスマスのイスタンブール。新市街の中心であるタクスィム広場では、白のイルミネーションで輝くクリスマスツリーが眩い。どうやらこの世俗国家は資本主義の波に襲われてるようだ。街には、伝統的なカフェやレストランと共にバーやクラブ、そして、BurgerKing、KFC, Starbucks、PizzaHut等の西側の店舗が立ち並ぶ。ブルカやヒジャブを纏う女性はほとんどいない。チュニジアとは様相が異なり、ここは本当にイスラム教国かと疑いたくなる。

かつてはこの都市はコンスタンティノポリスと呼ばれ、ビザンチン帝国やオスマン帝国の首都であった。市域がバルカン半島のヨーロッパ側と、アジア側の両方あり、特徴的な様子を浮き彫りにしている。東西文明の架け橋となっており、ヨーロッパ、北アフリカ、中東アジアとの交易地として栄えたという。現在でもボスフォラス海峡には数々の大型船舶が浮かび、貿易で栄えた様子が垣間見れる。この都市の壮大さは、チュニジアがビザンチン帝国とオスマン帝国のあくまで一周辺国であったことが実感させられるほどである。


本日、トルコ観光として欠かせないアヤソフィア博物館に訪れた。近年までモスクとして利用されていたが、元々は東方正教会の聖堂であったという。この聖堂は350年頃、ビザンチン帝国のコンスタンティヌス2世により建設がはじまり、2度の焼失を経て、6世紀中頃に現在の基盤となった。1520年にセビリアの教会が建てられるまでは約1000年間、世界最大の教会であり、東方正教会のメッカであったというから驚きだ。ガイドによると、当時は、ギリシャ、ルーマニア、ブルガリア、セルビア、ロシアから多くの信者が訪れ、この聖堂は現在のバチカンのような存在であったという。1453年にオスマントルコがコンスタンチノープルを征服してからイスラム教のモスクに転用された。

かつてキリスト教の聖堂であった面影は今でも残されている。正面入口の『キリストと皇帝』のモザイク画にはイエスに跪いている皇帝の姿が描かれている。ガイドによると、その姿は皇帝が献金を捧げている様子であり、献金をすることによって教会の歴史に刻んでもらったという。しかし、その説明には疑問が残る。むしろ、教会が絶対的な力を誇示する為に、皇帝を利用したのではなかろうか。あまりにも皇帝の姿がぶざまである。

更に聖堂の奥に入っていくと、壁側には十字架が描かれており、天井の半ドームには聖母マリアが映し出されている。チュニジアでも見ることができるビザンチン時代の特徴である幾何学的なモザイク画も見受けられた。一方で壁には多くのイスラム教の装飾やアラビア文字が加えられているが、かつてのキリスト教の面影と混在しており、正直、教会なのかモスクなのか見分けがつきにくい。

ビザンチン帝国の傘下にあったチュニジアが、7世紀にアラブにイスラム教化されたのとは対象的に、トルコは長い間キリスト教の歴史があり、イスラム教の歴史はけっして長くはない。アヤソフィアに隣接するスルタンアフメト(ブルーモスク)は1617年に建造されている。現在はイスラム教徒が99%以上を占めるトルコであるが、オスマン帝国時代には他宗教にも寛容であったようである。オスマン帝国は第一次大戦の敗北を契機に崩壊したが、1923年にアタチュルクを首班とする正教分離のトルコ共和国が建国され、イスタンブールは世俗国家の首都してスタートしたという。

チュニジアもフランスによる保護領時代の影響もあり、世俗主義を標榜しているが、イスタンブールと比較する限り、その様相は異なる。トルコでも世俗主義に対する反発はあるものの、緩やかな世俗社会が形成されているのは、その歴史課程による影響なのだろうか。それとも近年押し寄せてきている資本主義の波に飲み込まれつつあるからなのであろうか。久しぶりにKFCのフライドチキンをほうばり、クリスマスツリーを眺めながら、その異なる歴史について考えさせられた。

【参考資料】
Hagia Sofia Museum Guide
http://www.assetmanagement.hsbc.com/jp/attachments/monoshiri130901.pdf
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%A4%E3%82%BD%E3%83%95%E3%82%A3%E3%82%A2

2013年12月25日水曜日

ギリシャ経済危機

近代的なアテネの空港に到着し、ダウンタウンのホテルに向う途中の重厚な高速道路のレベルには驚かされる。途中のトンネル内ではまるで首都高を走っている錯覚に陥いるほどである。これらの比較的新しいインフラは2004年のオリンピック時に整備されたものなのだろうか。

繰り出した街ではクリスマス前の街並みが華やかであり、ライトアップされたパルテノン神殿が眩しい。店舗でもギリシャ人のセンスの良さを感じる。雑貨や洋服は世界中から良いものを集めている様子がわかる。通り過ぎる人々もファッショナブルである。食事もふんだんにレモンと蜂蜜を使ったサラダや、塩トリフを隠し味に使っているパスタ等、高いレベルを感じた。何よりも人々が意外と落ち着いている様子に安堵した。これがつい最近まで債務不履行(デフォルト)する可能性があった国なのか疑いたくなる。

一方で、街をよく観察してみると、不安定な要素も垣間見られる。街中のいたるところでスプレーで吹きつけられた落書きがあり、警察の数も多い。街角には必ずと言っていいほど、宝くじが売っている。経済難がゆえに一攫千金を夢見ている人々が多いのか。実際、人々は買い物を楽しんでいるものの、ほとんどセール商品しか手をつけていない。高級店では人がまばらである。

ギリシャは2009年の末から、経済危機に見舞われている。信用不安から国債が暴落し、株価が大幅に下落した。欧州連合(EU)や国際通貨基金(IMF)は緊縮措置や民営化を求めており、政府は痛みを伴う改革を進めようとしているが、国民との綱引きは現在でも続いている。2014年には再び財政不足に陥る可能性もあり、未だに予断は許さないという。

この経済危機は複合的な要因によるものだが、長年に及ぶ、身の丈に合わない年金制度、公共事業拡大、公務員の雇用拡大、汚職等による徴税能力の低さが主な原因のようだ。前述した高速道路や壮大なアクロポリス美術館も過剰投資に見えてしまう。公務員は労働人口の25%に達するという統計もあり、日本の5%程度と比較して、大きな政府であることは明白である。また、安定議席を確保していないという理由もあるだろうが、危機にも関わらず、指導者が断固としたリーダーシップを発揮できず、総選挙によって国民に真意を問うような状況に陥っている。1998年のアジア危機時に韓国がIMFの融資を受けた際に、金大中が国民に緊縮財政の必要性を説いた対応とは大きな違いがある。

一方で、この経済危機はユーロ通貨制度の構造的な問題によるものと指摘する経済学者もいるようだ。ユーロ加盟国は独自の金融政策を打てず、財政支出が増やせない為に景気浮揚策は乏しい。更に、本来は競争力の弱い国は貨幣を切り下げるが、それが不可能な為、資産価値上昇により金利が上昇する傾向にあるという。今回の問題は低金利で調達した欧州北部の資金が、高金利を求めて欧州南部に流入(キャリアトレード)し、バブルが発生した為と指摘している。単一市場内での競争力の格差が問題の本質であるという。

古代ギリシャにおいて、共同体であるポリスでは自足自給を目的としており、あくまで貨幣とは等価関係の物を交換する為の媒体に過ぎなかった。それが現在では誤ったグローバリズムや、行き過ぎた資本主義や金融化により、貨幣が投機的な目的で利用されている。ギリシャにおいては、ポリスの理念に従い、身の丈に会った実体経済の確立が経済危機の回避方法といったところなのだろうか。

2013年12月24日火曜日

アテネからチュニジアがみえる

クリスマスイブのアテネ。表参道や青山の町並みに似ているKolonakiやPlaka 地区では買物や食事をする地元の人々で溢れ返っている。各店舗にはポインセチアの花が飾られ、レストランではアコーディオンとタンバリンを持った二人組がジングルベルを奏でている。夕方に近づくにつれ、教会や樹木に飾られたイルミネーションにより幻想的な雰囲気が醸し出されている。

この国はギリシャ正教を母体としたキリスト教国であるが、クリスマスの街の雰囲気はアメリカや他のヨーロッパ国々とあまり変わらない。イスラム国のチュニジアから訪問した私はその異なる雰囲気を意識せざるを得ない。

この地区から歩いて10分程度のところに、オリンピアのゼウス神殿、そしてハドリアヌス門がある。そして、その門を通して、アクロポリスの高台にあるパルテノン神殿が映し出されている。昼間にこの地域に訪問したが、この国はかつては多神教であるギリシャ神話を信仰していたことがわかる。

現在は柱廊とわずかな天井しか残されていないそのゼウス神殿であるが、かつては古代ギリシャで最大の神殿であったという。その壮大さには畏敬の念さえ感じることができる。その神殿は紀元前500年ごろに工事が開始されたが、最終的にはローマ皇帝のハドリアヌスがAD129に完工させたといわれている。ギリシャをこよなく愛したハドリアヌス帝は自らを神格化する為に、金と象牙でつくられた巨大なゼウス像に隣接するかたちで、自らの像を並べたという。

思えば不思議なものである。かつてはギリシャもチュニジアもローマ帝国の一部であった。アクロポリスやゼウス神殿の建物は、チュニジアのドゥッガやウティナの遺跡と酷似している。チュニジア、イタリア、そしてギリシャの遺跡を訪問すると、かつては同じローマ帝国の域内であったことが実感できる。

さて、このハドリアヌス帝であるが、在位中は平和な時代を築き上げ、数々の大型なインフラを推し進めた。チュニジアにおいてもザグアンからカルタゴまで132kmの水道橋を推進し、そして、マルガの貯水場を築いた。カルタゴではアントニヌス帝が完工した共同浴場が有名であるが、ハドリアヌス帝が水のインフラを構築しなければ、この実現はありえなかった。

その後、AD395年にローマ帝国は東西に分裂し、ギリシャもチュニジアも東ローマ帝国に属すことになる。そして、チュニジアは7世紀にはイスラム教徒であるアラブ人に征服され、イスラム教国として歩みを始める。異なるイスラム王朝による統治が続いた後、1574年にオスマン帝国によって征服され、その後のベイによる統治も含め、オスマン帝国の影響下に300年おかれた。一方でギリシャは、1453年に、東ローマ帝国がオスマン帝国によって滅ぼされた後、400年近くオスマン帝国による統治が続いた。

両国はオスマン帝国の影響下に置かれた歴史を共有するが、チュニジアがイスラム教国として地位を確立したのに対して、ギリシャはキリスト教からイスラム教に改宗することはなかったという。その理由としては非イスラム教徒には人頭税が課税されていた為、大幅な税収の減少を恐れたオスマントルコがそれを望まなかったという。

かつては地中海諸国は同じ国として存在しており、共通の文化を擁していたが、現在、国の形態と文化は大きく異なり、ヨーロッパと北アフリカは分断されているようにさえ映る。それは、海という自然境界によって分離されているというよりは、宗教と国の運営方法によるものといってもよいのではなかろうか。この度、北アフリカからヨーロッパに訪問して、かつての共通点と、現在の相違点の差異を強く感じ、この20世紀の間に時代が逆行したのではと思ったほどである。

【参考資料】
http://www.athensinfoguide.com/wtsarch.htm
http://en.wikipedia.org/wiki/Temple_of_Zeus,_Olympia

2013年12月22日日曜日

ネルソンマンデラを偲ぶ

アフリカではネルソンマンデラの死を悼しむ様子が続いている。死去から既に2週間以上が過ぎたが、新聞、雑誌はこぞって特集を組み、同氏の偉業を称えている。

私は同氏が亡くなった12月5日にケニアにいたが、その反応は凄まじかった。その悲報はあらゆるメディアを通して、瞬く間に人々に伝えられた。

翌日にアフリカ人の友人達と食事をした際のこと、年輩のルワンダ人がマンデラのことを名残惜しそうにしていたのが印象的であった。

その金曜日の食事はルワンダ人、ケニア人、ウガンダ人、日系アフリカ人の間で親睦を深めるために行われたが、飲酒も手伝ってか、それぞれが本音で話しをする会となった。マンデラの悲報と共に、アフリカの各諸国の宗主国からの独立の話題が大変興味深かった。その3カ国が植民地から独立したのは1960年代前半であり、その年上の友人が、子供の頃は宗主国の植民地下にて育ったというのは驚きであった。

それらの話を聞いて、アフリカの独立運動とはさほど遠くない過去の出来事であり、特に上の世代のアフリカ人にとっては、マンデラのアパルトヘイト撤廃運動とは宗主国からの独立運動と重なるようである。そして、白人支配からの脱却に貢献したという思いが強いという印象を持った。

さて、そのルワンダ人によると、ネルソンマンデラは27年を獄中で過ごし、大統領として在籍期間はわずか4年であったという。それと対比して、ウガンダのムセベニ大統領は4年間服役し、27年間大統領として君臨している。その友人は、ムセベニ大統領と比較して、マンデラの人生の悲惨さを嘆いていたが、同時に、長期の服役に対しても屈しなかった精神を称えていた。

収監中、マンデラは学ぶことを決して諦めず、仲間同士でグループをつくっては、ソクラテスを研究するセミナー等を行い、公正で平等な社会を実現するために議論を重ねた。そしてその間、南アフリカ大学の通信課程により、法学士号を取得している。また、マンデラは他の政治犯の服役者にも学ぶことを奨励したという。

そしてそのマンデラが残した名言。「監獄で27年も過ごせば人生は無駄になったと人は言うかもしれない。だが政治家にとって最も重要なのは、自分の人生をかけた理念がまだ生きているかどうか、その理念が最後には勝利しそうかどうかだ。そして、これまで起きてきた全てのことが、我々の犠牲が無駄ではなかったことを示している。」

現在、南アフリカでは、ブラック・ダイアモンドと言われる中間層が育っている。彼らは高い教育と知識を擁し、自信に満ちている。アパルトヘイトが撤廃されたのは90年前半の出来事であり、これらの新たな層が育ってきたのはわずか最近のことである。つまり、マンデラの不屈の精神と学ぶ姿勢が無ければ、アパルトヘイト撤廃は実現せず、これらの希望に満ち溢れる中間層は育っていなかった。改めて、マンデラの偉業とその精神に対して敬意を表したい。

 

2013年12月18日水曜日

『グリーン革命』と『フラット化』~地熱発電~


トーマス・フリードマンが『グリーン革命』(英語名:Hot, Flat, and Crowded)を2008年に出版してから、既に5年以上の月日が過ぎた。グリーン革命とは、現在の化石燃料を使った社会システムを、クリーン燃料(太陽力、風力、水力、潮力、地熱)を利用した社会へ変革することである。

フリードマンは2006年に発行した『フラット化する世界』(英語名:The World is Flat)のベストセラーで名高い米国のジャーナリストであるが、その視点は鋭い。同書では、ITの飛躍的な発展により、インドや中国がグローバルな競争に参入している様子を描いた。この本で強烈な印象が残っているのは、アメリカのドライブインにて注文を受けつける機械からの声が、実はファーストフードの店員ではなく、はるか海を越えたインドにいるオペレーターのものであるというものであった。いかにコストを追求する為にグローバルリゼーションが進んでいるかを描いたものである。

余談であるが、当時、私はアメリカで学生をしていたが、授業の課題でこの『フラット化する世界』を読んだ。フリードマンの本の内容を確認するべく、ドライブインで注文する度にオペレーターに対して『ところで貴方はどこにいるのか。インドか?』とマイクに叫んでみたが、私の質問はことごとく無視されたことを覚えている。

そして、その後、米国ではリーマンショックが起こり、アメリカの金融業と不動産業は大きく後退した。『グリーン革命』が出版されたのはその頃である。グリーン革命とは、オバマ大統領が主張する「グリーン・ニューディール」に沿ったものであり、新たな産業と雇用を生み出すための呼び水であると言えよう。本の中では、中国とインドの台頭により、資源争奪戦がこれまで以上に激しくなりグリーン革命を遂行しないと豊かな生活が続かなくなることを強調している。

さて冒頭に述べた通り、この二つの本が出版されてからしばらくの年数が経ったが、世界は益々フラットになった。一つの例としては、現在、アフリカに住んでいる私であるが、世界中の友人とFacebookで繫がっている。数年前に今後しばらく会うことがないだろうと別れた友人達の食事の内容がアップされたり、飲み会の写真が映し出されたりする。あまりにもフラット化しすぎて少し距離を置きたい時もある。このブログも世界中の皆様が読んでいるようで、フラット化の恐ろしさを感じる。

一方で、あれほど強調されていたグリーン化は進んでいるだろうか。正直、飛躍的にクリーンエネルギーが増えたという実感はない。2011年3月11日に起こった東日本大震災によって、日本の全ての原発が停止したが、新たに増設した発電所はガスタービンが主であり、日本は貿易赤字を抱えるほど、化石燃料の輸入が急増した。また、ドイツやスペインにおいてはクリーンエネルギーの固定買取り制度が崩壊し、世界的に有名なソーラーパネルの数社が倒産に陥ったほどである。

理由は何故であろうか。フラット化と対照的にグリーン化は基本的にはコスト増であり、たとえ制度化したとしても多大な補助金を導入せざるを得ない。その脆弱性を露呈したのが、ドイツやスペインの固定買取り制度であろう。風力発電のようにコスト的に競争力がある発電も出てきたが、風力発電はベースロードではなく、補完する発電が必要となる。それは結局、最終消費者にコストが上乗せされるか、又は納税者が払う補助金で支えているに過ぎない。

さて、それでは、クリーンエネルギーの中で化石燃料を経済的に上回る発電方法は無いのであろうか。実は私は地熱発電がその数少ない手段であると思っている。

地熱発電とは、地下の熱源にて生成された水蒸気により、蒸気タービンを回すことによって発電する方法である。地下の熱源がボイラーの役割を提供しており、化石燃料を利用する必要がなく、二酸化炭素の発生が少なく、環境に優しい発電方式である。火山活動が多い国で主に活用されており、当然ながら日本もそれに該当する国であるが、大規模な利用に至っていない。最近では国立公園に関わる規制の緩和も進み、地熱発電の稼働に向け徐々に計画が進められているようだ。

ちなみに海外では地熱発電の利用が進んでいる。ケニアにおいても30年以上稼働している蒸気タービンがあり、今でも高い稼働率を維持しているという。ご参考までにケニアの地熱発電の固定買取価格(FiT)は米国ドル8.5セント/Kwhである。これは、3.5セント/Kwhの蒸気価格と5セント/Kwhの発電コストからなる。蒸気の発掘に関してはリスクの観点から無償資金や譲渡性の高い融資に依存している場合が多いものの、この発電コストは市場で十分競争できる価格である。しかもベースロードである。

実は地熱発電、特に大型の蒸気タービンは日本製が世界の市場を席巻している。上述したケニアの蒸気タービンも日本製である。また、日本製は蒸気によって発生する錆に強い工夫を凝らした金属や、蒸気と熱水を分離する際の細かい技術を擁しており他国のメーカーを圧倒しているようだ。

クリーンエネルギーの利用拡大には、日本の高い水準の技術が不可欠であろう。是非、日本の事業者やメーカーには世界的な『グリーン革命』の“フラット化”に寄与して欲しいと切に願う。

2013年12月16日月曜日

日中関係を考えてみる

『21世紀は中国の時代』と呼ばれて久しい。過去数十年間における経済成長は目覚ましく、現在、アフリカで大きな存在感を示している国である。しかし、昨今、日中間の関係が悪化していることに強い懸念を覚えている。

最近、中国に長い間住んでおり、中国の政治経済に詳しい友人と食事をする機会があったが、彼曰く、現在、中国国内では様々な問題を抱えており、その国家運営は一筋縄でいかないという。

その友人によると、中国は雇用の確保を目的として、社会の安定化を計るためには、経済成長は不可欠であり、2008年のリーマンショック以来、内需拡大によって、その目的を達成しようとしているという。その結果、中国政府は全国の地方行政や国有企業に巨額の資金を投入し、それらの資金がインフラ整備に回された。そして、そのうちのかなりの資金が投機に回り、不動産バブルが発生しているようだ。

現在、北京の平均月収は5000元(約8万円)であるが、平均の土地価格は平米あたり、4万元弱(約60万円)まで上昇しているという。50平米の土地が平均で3000万円もすることになり、平均年収の30倍以上の価格になっているという。庶民にとってみればマイホームは夢の夢となっているようである。また、環境問題や大気汚染が深刻化しており、北京の出身者でさえ、地方に脱出する人が増えているとのことであった。

現在、中国政府は引き締め政策を行っているようだ。バブルが崩壊しないように軟着陸させようというのが本音であろう。今後は高成長がなくても、社会を如何に安定化させるかいうのが大きな焦点と思われる。しかし、以前のような高成長がなくても、中間層が育ってきている中国は国家運営が行うことは出来るかもしれない。

一方で、最近の中国政府による言論の引き締め傾向に対して国民は不安を覚えているという。習近平の毛沢東主義への回帰する姿勢も様々な波紋を呼んでいるようである。このような背景もあり、共産党が国民の目を国外に向けさせる為にも、日本に対する強硬な姿勢を崩さないのは否めない事実であるようだ。

これらの社会不安の解消と軟着陸が出来なかった場合には、『第二の文化革命』の再来を予想する悲観論者もいるようだ。文化革命の起こった背景には、全土に及ぶ飢餓や、ソ連との関係悪化等の社会不安並びに外交上の問題があった。文化革命によって、ソ連の技術者は撤退し、また、教育の低下により中国における技術的な発展は10年間も停滞した。中国人の中には今回の日本との外交関係の悪化が、当時の文革前のソ連との関係を彷彿する人もいるようである。また多くの良識ある中国人は日本との良好な関係を望んでいるようだ。

振り返ってみると日中の関係はつい最近まで非常に良かった。1972年の 日中国交成立以来、これだけの年月をかけて構築した日中間が悪化するのは残念でならない。私の幼少の頃は上野動物園のランラン、カンカンに代表されるように、日本と中国の外交関係は希望に満ちていた。個人的にも、80年代には、交換留学制度により、実家に中国の留学生がしばらく泊まったこともあり、彼とは30年近く、家族ぐるみの付き合いである。

また、私が以前働いていた商社の仲間は、80年代、90年代に中国にて語学研修を行い、その後、中国に駐在をしているものも多い。その商社は中国語を話せる職員が500名以上もおり、中国にどっぷり浸かっている企業であるが、同期の友人の結婚式に中国人の友人がわざわざ東京まで駆けつけて、中国語で祝福の歌を披露してくれたこともあった。

昨今の反日運動で多くの日本人が中国に対して気持ちが離れたのは事実だろう。この度、良識ある多くの中国人がいることを忘れてはいけないと思った次第である。

アフリカの奇跡 ~ケニアにて~


『アフリカの奇跡』とはケニアでマカデミアナッツの事業を起こした佐藤芳之氏の自伝である。24歳でアフリカに渡り、年商30億円規模のビジネスに育て上げたストーリーである。

1963年東京外国語大学を卒業した佐藤氏はガーナ大学に留学し、ケニアにて日系企業に勤務した後、マカデミアナッツ社を起業する。まだ宗主国から独立してから間もない頃のアフリカ大陸に単身で渡り、一から会社を立ち上げるということは、現在の感覚からは想像もできないほどの苦労があっただろう。そしてそれを二人三脚で支えた奥様の佐藤氏に対する真摯な助言と、ビジネスに対する洞察力は興味深かった。

『アフリカの奇跡』はケニアに訪問する際に熟読しようと日本から持参した本であるが、先週、その機会に恵まれた。そして、ケニア行きのエメレーツ便で同書に読みふけっていると、フライト・アテンダントがワインと共に暖かいナッツを運んでくれた。丁度、マカデミアナッツ社がエメレーツ便に同社の商品を納入しているとのフレーズを読んだ直後だったので、そのタイムリーな偶然に驚いた。確かにこのナッツは美味い。酒のつまみに最高である。

その後、ケニアの空港に到着し、ホテルの送迎車の中で、運転手から「Out of Africa」というパッケージに入っているナッツを提供された。製造元を見たところ何とマカデミアナッツ社の商品であった。運転手によると、ケニアの名産物の同商品を外国人に提供するのは『Welcome to Kenya』という意味合いであるという。隣に座っていた同僚のウガンダ人に対して『このナッツの会社は日本人が立ち上げた会社だぜ』と説明すると、同僚は驚いていた。日本人のアフリカにおける活躍が誇らしかった。

さて、私にとってはケニアは初めての訪問であり、同国は好印象であった。イギリスに統治された影響なのか、元来のものなのか分からないが、ビジネスパートナーでも、ホテルやレストランのサービスでもケニア人とは相手の気落ちをくみ取れる教養のある人々であると感じた。若干、そのあたりは、北アフリカよりもレベルの高さを感じた。また、公園や高級住宅街等の街並みは緑に溢れ秩序だっており、駐在するのであれば最高の国だと思った。しかし、治安が悪いのが若干気になるところである。

ケニア滞在中には、かつて日本で共に働いていた先輩に10数年ぶりに会い、旧交を温めたが、その先輩は佐藤氏をよく知っているという。改めて世の中の狭さに驚いた。先輩によると、現在、佐藤氏は会社の経営は後継者に託し、微生物技術を利用した水を使わないトイレのビジネスを手がけているという。マカデミアナッツ社において現地の雇用と福利厚生の拡充を最優先していた佐藤氏であるが、現在でもアフリカ人の為にソーシャルビジネスを目指しているようである。


ナイロビ国立公園にて
   ちなみに、『アフリカの奇跡』によると、佐藤氏がアフリカにおいて歩みを始めようと思ったきっかけはタンザニアの国立公園にてキリンの一家に遭遇し、その“素”のままで歩き続ける姿に感銘を受けたからであるという。

私は、週末にその光景にふれるべく、ナイロビ国立公園にてキリンを観察しに行った。国立公園内で、車で探索すること1時間、やっとキリン一頭を見つけた。車のエンジンを切り、その様子を長く見守る。大草原にて、キリンが堂々として歩む姿は誠に優雅であり、まるでスローモーションのように時が流れる感覚に陥った。そして、あたりには涼しい風が吹き渡り、まるで日頃のせわしない生活により磨耗している心が洗われるようであった。

これこそが東アフリカの魅力なのであろうか。早くもその魅力に吸い込まれそうである。