2013年2月27日水曜日

黄金の国『コートジボワール』 

 子供の頃、タカラが発売していたポケットゲームシリーズで『黄金の国々ゲーム』という玩具があった。世界中を探検しながら、貿易で各国のお宝を取得して、大富豪になるのを競うというゲームである。兄と共に知らない国に航海した気になって熱中して遊んだのを覚えている。

その『黄金の国々ゲーム』の中で一つ異彩を放つ国があった。その国はアフリカにある『象牙海岸(現:コートジボワール)』である。記憶に間違いがなければ、象牙海岸のお宝は文字通り、"象牙"であった。事実、この『象牙海岸(Côte d'Ivoire)』という名前の由来は、15世紀頃から、西欧の貿易船が奴隷と共に象牙の売買をしていたことからきている。この『黄金の国々ゲーム』を遊んでいたのは、1970年の後半頃であるが、当時、小学校低学年の私は『象牙海岸』とはアフリカにある未開の国と思い込んでいた。

しかし、コートジボワールは『黄金の国々ゲーム』のイメージとは異なり、首都のアビジャンは『西アフリカのパリ』と言われていたほど活気に満ちて発展していたようだ。60年代から当時の70年代まで驚異的な経済成長を遂げていおり、その経済発展は『イボワール(コードジボワール人)の軌跡』と呼ばれていた程であるという。

実際に西アフリカの経済の中心地であるコートジボワールに駐在していた日本人も多かったという。以前、働いていた通信会社の役員は元商社マンであったが、80年代前半に建設機械の仕事でアビジャンに駐在をしていた。その他国際機関もあり、当時、財務省や日銀から出向していた方にもお会いしたことがある。皆、口を揃えて『当時のアビジャンは華やかだった』と懐かしそうにしていた。

ちなみに私の隣の席の同僚はコートジボワール人であるが、70年代~80年代は高度経済成長期であり、輝かしい時代であったという。アビジャンは建物のラッシュが続き、近隣国からの移民も多かったという。ナイジェリアは市民戦争中であり、ガーナも景気が低迷し、ブルキナファソは小国であり、近隣国の移民にとって、まさにアビジャンは皆が憧れる『西アフリカのパリ』であったようだ。90年後半になってカカオの価格が急落して経済が停滞し始めたという。

2002年になり、クーデター未遂をきっかけとして、内戦に発展する。その際に日本企業も含む国際社会もコートジボワールから撤退したという。その後、国連等の国際機関がコートジボワールの内政の介入を試みるが、バクボ前大統領は権力を掌握し続け、最終的に総選挙が2010年11月までずれ込んだ。

2010年11月の選挙結果は、対立候補の『ワタラ氏』が、現職の『バクボ氏』を投票数で上回ったといわれているが、『ワタラ氏』と『バクボ氏』の両者共に、大統領宣言を行うという異常事態が発生する。この二人の対立で再び内戦が勃発し、両者を支援する人々の3000人が死亡したようだ。最終的に西側諸国から支援を受けていた『ワタラ氏』が権力を掌握した。現在、前大統領の『バクボ氏』はオランダのハーグの国際刑事裁判所(ICC)で、選挙後の殺人等の数々の罪に問われている。聴講会は2月28日迄実施され、その後2ヶ月で刑が確定するという。

一方でコートジボワールの経済は復調しているという。ジェトロのレポートによると、2013年は、復興需要により大型公共事業が進展し、インフラ開発、公共事業、資源開発への投資が内需拡大につながり、成長を後押しするという。更に、堅調な内需に支えられ、農産品、鉱物資源採掘、石油精製、エネルギー、食品加工、建設、電気通信、運輸・広告・メディア、商業部門の生産活動が軒並み好調に推移すると予測され、2013年の実質GDP成長率は9.0%が見込まれているようだ。

2月号の『African Business誌』はコートジボワールについて40頁にわたる特集を組み、電力や港のインフラや、石油セクター、パームオイル等の農業セクターや、金融セクターについて詳細に説明しており、その成長の期待を窺わせている。更に、ワタラ大統領は、“Diaspora”と呼ばれる海外に逃亡したコートジボワール人に対して投資を含むビジネスを促しているという。Disporaはフランスや、カナダ、ポルトガル、デンマーク等におり、フランスだけでも十数万人存在するようだ。

1960~1970年にかけて『イボワールの奇跡』と言われた頃の政治は、ウフェ=ボワニ大統領のカリスマ性によって安定しており、年平均8パーセントの驚異的な経済成長を遂げていた。2013年はその奇跡と言われた頃の経済成長率を上回ることになる。

コートジボワールは『黄金の国』として再び輝きを取り戻すことができるのであろうか。まずは、ワタラ大統領には、国内政治や情勢の安定化により、国際社会の信用回復を期待したい。

2013年2月25日月曜日

カサブランカ2 (中央市場)

本日、カサブランカの民衆の胃袋である『Marché Central(中央市場)』に訪問した。
その中央市場は高級ホテルや銀行が立ち並ぶ『Avenue de l'Armée』の 裏道に入ったところにある。カサブランカは商業地域と民衆の生活の場が隣接している町のようである。

私は様々な国に行く機会があるが、その国の中央市場に行くのが習慣になっている。単純にその国の食文化を見るのが楽しいからである。学生時代のバックパッカーだった頃は中央市場に行けば、安く美味しい料理が食べられるからということもあった。『食べ物は人を幸せにする』ことには誰も異論がないであろう。ワタミの渡邉美樹会長が、食の分野で起業をしたのも、学生時代に世界各国を旅行して、食が人に与える幸せを認識したからであると本で読んだことがある。
ガイドブックも地図も持参せず、通りの人に道を聞きながら、ホテルから歩いて10分。あまりの近さに少し落胆した。『港町の旅は冒険に満ちてるべきである』からである。意外性のない旅はつまらないと学生時代に戻った気分になった。
中央市場の大きさは、日本の一般的な小学校の運動場の広さくらいであろうか。チュニスの中央市場と比べるとその規模は大きくない。週末であるが、既にお昼を過ぎていたので、人もまばらである。観光地らしくフランス人やスペイン人の観光客がカメラを持ちながら見にきていた。
市場に入るなり魚売場が目に入った。魚屋は、青空店舗で4~5店あったが、種類は豊富であった。Daurade(鯛)、Loup(スズキ)、Merlan(ホワイティング)、Espadon(メカジキ)、Salmon (サーモン)、Sardine(鰯)、Sole (舌平目)Crevette Royale(王様海老)、Carmar(ヤリイカ)等が豊富に並ぶ。更にあまりチュニジアでは見ないLangouste(欧州伊勢海老)もあった。さすが、地中海と大西洋を結んでいる国である。短期間の滞在でなければ、買い物をしたいところである。
少し市場の中に進み、牡蠣(huître)専門店に出くわした。牡蠣の大きさが目を引く。日本の倍ぐらいはあるのではないか。1個で10DM(約110円)はお得であろう。

店の人にレモンと共に試食を薦められたが断った。牡蠣は大好物であるが、10年近く前に、ハノイに出張した際に酷い目にあったからである。ハノイのSofitelホテルの朝食ビュフェに生牡蠣が並んでおり、誘惑に負けて食べたのが運の尽きであった。当初、不調の原因が不明で、奇病にかかったと思い、体のだるさと気持ち悪さでこのまま死ぬのではないかと思ったほどである。翌日の帰国の飛行機の中では、文字通り、のた打ち回り、這うようにして自宅に戻ったのを覚えている。それ以来、出張の際には生牡蠣は絶対に食べない。
そして、生唾を飲み込みながら、後ろ髪が引かれるように、牡蠣の専門店を後にし、市場の中心の肉屋の店舗群に向かった。肉屋が10店舗程あったが、牛肉屋のみならず、馬肉屋も一軒あった。馬を食べる習慣があるのはチュニジアと同じようである。ちなみに値段を聞いてみたが、牛肉のランプ(尻部分)は110DM(約1200円)/Kgで、馬肉のランプは60DM(約660円)/Kgであるという。馬肉の方が希少なのに値段が安いとは意外であった。更に鶏肉屋に行き、値段を聞いてみたが、馬肉の半額以下であった。鶏肉が安いのは万国共通のようである。当然ながら、豚肉屋は存在しない。ここはイスラム国であり、豚を食べるのはハラーム(禁止)であるからである。
その他、生鮮野菜屋、果物屋、豆やスパイス店、花屋等を見た後、市場内の食堂に向かった。好物の魚スープを頼んだが本日はないという。落胆したが、魚のフライ定食を薦められた。中身はCrevette(海老)、Melran(ホワイトニング)、Sole(舌平目)のセットである。 Merlanは文字通りの白身魚であるが、肉のボリュームがあって美味しかった。サラダとパンも含めて値段は60DM(660円)程度であるという。物価はチュニジアより若干高い気がした。
中央市場を出て、場外に数件並ぶレストランを見てみた。ある店の店外メニューを見たが、何と『パエリャ』があるではないか。さすがにスペインの対岸の国である。中央市場で昼食を済ませたのを後悔した。チュニジアではパエリャを提供する店に出くわしたことがない。滅多に無いチャンスを逃してしまった。しかし、かつてのように、昼飯を2回食べるほど胃袋は強くもない。
学生時代にバレンシアに滞在した時のことを思い出した。その際には1週間に4回はパエリャを食べていた。バレンシアはパエリャの発祥の地である。春休み中、語学学校に通っていた私の所に、卒業旅行で欧州を回っていた兄が遊びに来てくれ、二人でパエリヤの店に行った。サングリアで酔いながらも、兄がサルテンに付いていた焦げの部分をスプーンで掘り起こし、綺麗に平らげたを思い出した。よく妻に『どうしてお義兄さんは綺麗にご飯を食べるのに、貴方は食べ物を残すの。』と文句を言われるが、その頃から習慣が変わっていないことに今になって気がついた。
スペインに訪問してから、22年の年月が経ち、ようやく訪問できなかった対岸のモロッコに来ることができた。当時は遥か遠い国であったが、まさか、近隣国に住むことになろうとは夢にも思わなかった。まさに人生とは判らないものである。
人は風雪の時と共に変わるといわれるが、一方で人の基本的な気持ちはあまり変わらないということも事実である。束の間であるが若い頃のバックパッカー気分に戻り、心が躍った日であった。機会を与えてくれたモロッコに感謝したい。

2013年2月23日土曜日

カサブランカ1(ホスピタリティー溢れる町)

チュニスから飛行機で3時間。カサブランカに到着した。モロッコの玄関口である『ムハンマド5世国際空港』はシルバーメタルで覆われた近代的な空港であった。

空港からダウンタウンのホテルまで30分。クラシックのメルセデツのタクシーでダウンタウンまで向かった。周辺は緑が多く、椰子の木で覆われた道はどこか南国の雰囲気が漂っている。道は広く清潔であり、どこか秩序立っている気もする。

町に近づくにつれ、大きな広告が見え始めた。『Phillips』、『ABB』、『Samsung Galaxy』、『CITI Bank』、『TISSOT Watch』、『McDonalds』、どれも外資系ブランドの看板である。夕方になり少し暗くなり始め、そのネオンが眩しい。チュニジアから来た私は少しお登りさん気分である。どうやら、モロッコは資本主義の波に晒されているのは間違いなさそうだ。

しばらくタクシーで走行して、突然、前方で赤い最新の『路面電車』が街道を横切るのが見えた。運転手に聞くと、『2012年12月12日』に開通したばかりのトラムであるという。

道が徐々に混み始めてきた。どうやら、車はダウンタウンに入り始めたようである。『カサブランカ(白い家)』の名前の通り、白基調の建物が見え始めた。伝統的な古い建物が立ち並んでいる。騒然とした雰囲気の中で目抜き通りに入り始める。高層のビルや高級ホテルがいくつか見え始めた。『Sheraton』、『Hyatt』、『Sofitel』、『Novotel』、『GoldenTulip』。先進国とその雰囲気はあまり変わらない。タクシーはラッシュアワーで中々進まない。歩道には家路に向かう人々が大勢見えた。ここは都会のライフスタイルを送っている人が沢山いるのであろう。

ようやく、フランス系のホテルに到着した。正装したホテルマンが笑顔で迎えてくれた。ホテルはホスピタリティーに溢れており、そのサービスには好印象である。ホテルでは、レストランで外国人が談笑したり、スーツ姿のビジネスマンが商談している人がいたり、どこか国際的で洗練されている雰囲気であった。スペイン語が飛び交っているのも聞こえた。そうである。ここはスペインと目と鼻の先であることを思い出した。

カサブランカはモロッコの商業・金融の中心地であり、400万人近い人口を有しているという。歴史的にはベルベル人、フェニキア人、ローマ人、アラブ人、スペイン人、フランス人がこの町で商業活動を行っていたようだ。まさに大西洋、地中海、アフリカ、ヨーロッパを結ぶ貿易の町なのである。その日に買った『L'opinion紙』によると、カサブランカは2012年に外国人が訪れたアフリカの都市としては、南アフリカのケーブタウン、ダーバンに続いて3番目であったという。かつては、観光客はヨーロッパ経由でアフリカに向かっていたが、最近はモロッコを含む北アフリカ経由で、アフリカに向かうパターンに変わりつつある事を説明していた。

翌日、モロッコ人のビジネスパートナーとも打ち合わせを行ったが、皆、友好的であり、かつ、プロフェッショナルであった。英語も完璧である。質問もプラグマッティックであり、且つ細部に及んでいた。モロッコ人は長い貿易活動により、そのビジネスの手法が鍛えられているのであろうか。現在は資本主義の流れも取り込み、脈々と商業と金融の伝統を継承している。

ビジネスパートナーと昼食を食べながら、モロッコの歴史について色々な話をした。1492年のイスラム王朝の『グラナダ陥落』後、言語も含めて様々なスペインの文化がモロッコに流入したが、一方で、アラブの文化や言語が、スペインやポルトガルに与えた影響も多大であるという。スペイン語で油は『Aceite(アセイテ)』というが、これはアラブ語の『ゼイト』から来たと言う。恐らく、アセイテの語頭の「ア」は、定冠詞の「al」がリエゾンしたのであろう。

更に、モロッコ人の多様性の話題になった。ビジネスパートナーの出身地であるマラケッシュには『Mellah』という地区があり、彼の幼少時代まで、その地区にはユダヤ教徒しか入ることは許されなかったという。現在は、その多くのユダヤ人はイスラエルに移住して、ユダヤ人による自治は崩壊したようである。近代になっても民族の流れが起こっていることに驚いた。

歓談をしながらの昼食はクスクスであったが、正直、チュニジアのクスクスよりも美味しいと感じた。レーズンのような隠し味が入っていたのがツーであった。前日のレストランで食べたムール貝の料理も絶品であった。モロッコは地中海のみならず大西洋の魚も取引され、魚の種類が豊富であるという。

まだ滞在2日目であるが、モロッコのホスピタリティーとレベルの高さに感銘を受けた。モロッコの第一印象は『いいね!』であろうか。

2013年2月21日木曜日

ジェバリ首相辞任について




辞任したジェバリ首相
昨日(19日)ジェバリ首相が辞任した。ジェバリ氏は今月6日のショクリ・べルイ-ド野党指導者の暗殺後に、政党に属さないテクノクラート(実務者)による内閣改造、並びに早期の総選挙を目指していた。しかし、自らが所属する穏健派イスラム政党であるアンナハダにより、この改造案が受け入れられずに辞任せざるを得なくなった。

これは、革命後、表舞台に立った与党のアンナハダが権力を自ら手放すような事をしなかったということであろう。ファイナンシャルタイムズ等の記事によると、アンナハダ曰く、この改造案が受け入れられなかった理由は、ジェバリ首相がこの改革案をアンナハダに事前に相談せず、国民に発表したからであるという。アンナハダはガンヌーシ氏が創立者の一人であり、同氏が党首を務めている。ジェバリ首相は党においてはSecretary General(幹事長)に過ぎない。同記事によると、現在、ガンヌーシ党首とジェバリ首相の関係は悪化していると言われており、敵対視さえしている仲であるという。
 
ガンヌーシ党首(アンナハダ)
少し解りにくい構図であるが、これは日本に例えると、安倍首相が、自ら所属する自民党や他の政党から閣僚を選ぶのではなく、早期解散を目指して、政治色が無い民間人や有識者にて内閣を改造しようとしたものであろう。しかし自民党のキングメーカーの森、麻生元首相等がこの内閣改造案に反対し、安倍首相が辞任せざるを得なくなったというような構図である。安倍首相の場合は、自民党の総裁を兼ねているが、チュニジアでは党首が別にいる。本当のキングメーカーはガンヌーシ氏である。

実はこのジェバリ元首相の改造案は、世俗派の野党のみならず、穏健イスラム派、並びに西側諸国から絶大な期待がされていた。ショクリ・べルイ-ド氏の暗殺の後にイスラム派と世俗派の溝が深まっているからである。私の知る限りでも、イスラム派も含む多くの良識のあるチュニジア人は、ジェバリ氏は党の利益よりも、国の利益を優先していると見ており、この勇気ある行動を支持していた。皆、チュニジアがエジプトのような混乱に陥って欲しくないと思っているからである。しかし、この改造案が受け入れらず残念でならない。

本日(20日)、格付け機関のスタンダード・アンド・プアーズ(S&P)はチュニジアの信用格付けを「BB」から「BBマイナス」に引き下げたと発表した。既に投機的(投資不適格)の格付けであったが、更なるワンノッチの格下げである。この政治の混乱によって、経済の回復や投資家の信用が損なわれたからであるという。今のところ、S&Pの分析は、総選挙の見込みが、2013年以降になるとは予見していないようであるが、今後混乱が拡大が起きた場合には、更なる格下げの可能性もあり予断は許さない。参考までに、元々の総選挙の実施の予定は今年の3月であったが、現在、夏頃までにそのプロセスが遅れるといわれている。

チュニジアの経済は、ジャスミン革命が起こった2011年にはGDPマイナス1.8%成長であったのが、世銀の予測では2012年は3%半ばになるという。経済の回復が期待されている矢先に、このような政治の混乱により、国民生活の足を引っ張っていては元も子もない。格付けが下がったことにより、海外からの資金調達も困難になってきた。ジャスミン革命とは国民に主権を取り戻す事が目的ではなかったのか。

危険を煽るつもりはまったくないが、チュニジアは現在岐路に立たされている。エジプトのような混乱(Chaos)の道に進まないことを祈っている。アンナハダには良識ある方針、つまり、国会の早期解散並びに総選挙実施を期待する。

2013年2月19日火曜日

チュニジアのインフレーションについて(2)~リビア危機との関係~

前回の『チュニジアのインフレーションについて(1)』において、同国のインフレは主に金融市場の流動性の拡大や、金利、為替等が大きな要因であることを述べた。

しかし、DFIのレポートによると、チュニジアのインフレはこれらの要因のみならず、『リビアの内戦』も多大な影響を与えていたという。特に2012年初頭は、チュニジアから対リビアへの“農業・食品の密輸が急増していたようだ。リビア
に対して、市場価格より高価で食品が輸出されたことにより、チュニジアの国内価格の高騰に繫がったようだ。特に国境においては、基本的な食品が不足した事態が起きたという。問題はこれらの食品が補助金を対象としたものが多いことである。チュニジア人のタックス・ペイヤーの金で、密輸業者を儲けさせていることに他ならない。
 
そのDFIのレポートによると、2010年から2011年間のチュニジアによる対リビアの輸出(9か月間のみ比較)は、『革製品・靴』は例外として全てのセクターが減少しているにも関わらず、『農業・食品』のみ急増しているという。(下図参照)同セクターの伸びはTND186百万から、TND554百万と約3倍増の驚異的な伸びを示している。


このデータはチュニジア輸出振興会(CEPEX)の提供した数値であり、密輸とは関係がないデータであるが、正式な統計でもリビアへの農業・食品の輸出は増えていることがわかる。国内の生産のペースが追い付かない場合には、国内供給が減り、価格が高騰化するのはうなずける。前回も説明した通り、食品の消費者物価数(CPI)に占める割合は32%であり、インフレ率への影響は少なくないはずである。2012年のデータが入手できないので、最近のトレンドが解りかねるが、流通チャンネルが確立した後は、食品の輸出はそう易々と止まらないと思われる。

 2012年9月10日付『リビアビジネスニュース』の記事によると、チュジニアの他国に対する『夏果実』の輸出は、昨年の同時期より17%増大し、3.25万トンになったという。この内、40%程度がリビア向けに輸出されたとのことである。ちなみに、夏果実の輸出内訳は主に『スイカ』が54%、『ストーンフルーツ』(桃、アプリコット、チェリー、プラム等)が28%である。これも、闇市場ではなく、チュニジアの農業省発表した正式な輸出の数値であるが、やはり、対リビアの農業・食品の輸出の拡大は2012年の夏頃にも継続していたようだ。

2011年にリビアで内戦が勃発した際には多くのリビア人がチュニジアに国境を越えて避難したといわれている。国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)によると、その数はピーク時に約百万人に昇ったという。リビア大使館の統計でも2012年6月時点で約54万人のリビア人がチュニジアに避難していたようだ。今年の1月号の『Jeune Afrique誌』によると、両国間の密輸が拡大していることを指摘しており、チュニジアからリビアへの密輸は食品のみならず消費財の流出が起こっているようだ。リビアからチュニジアへ武器や麻薬が流入してることも指摘されている。人の流れが活発化し、容易に様々な商品が国境を越えていることが想像つく。

昨年、少し変わったところでは、チュニスの数か所で、日本の米と似ている『エジプト米』が販売され始めた。これは密輸とは関係ないと思われるが、店主によると、リビアの卸売業者がチュニスに運んでいるという。多くのリビア人がチュニジアに住んでいたからである。(ちなみにリビア人は短米を食べる習慣があるが、チュニジア人にはその習慣がほとんどない。)これもチュニジアとリビアの取引が活発化している一例である。これに関しては私も恩恵を受けており文句は言えない。

これからも、チュニジアの多くの農業品や食品がリビアに流れ、インフレが拡大してしまうのであろうか。ちなみにチュニジアの果実は美味しい。現在はオレンジ、ミカン、リンゴ、ナシ等が出回っているが、夏にはスイカ、桃、ブドウ、メロン等の豊富な果物が店頭に並ぶ。正式な輸出の場合には文句が言えないが、安くて美味しい果物を食べる権利は、チュジニア在住者のみにあってほしい。チュニジア人、特に庶民から特権を奪わないで欲しいのが正直な気持ちである。

2013年2月17日日曜日

チュニジアにおける知的所有権とは(衛星放送ビジネスモデル)

以前、『衛星放送とアラブの春』というテーマで、チュニジアにおいて、民衆が衛星放送をどのように視聴できる環境にあるのか紹介した。チュニジアにおいては、コンテンツの権利や知的所有権の概念が薄く、有料放送(DTH)というビジネスモデルは存在しない。巷で徘徊するテレビ業者が、スクランブル解除情報をセットトップボックス(STB)に挿入して、衛星放送を無料で視聴できるようにしている。

本日、その徘徊するテレビ業者(悪徳業者なので以下『親爺』と呼ぶ。)と、近所で話をする機会があったので、その手法についてもう少し詳しく聞いてみた。

その親爺によると、最近のSTBはインタ-ネット機能がついており、ソフトウェアー業者のサーバーから、スクランブル解除情報を送り続ける事によって、有料チャンネルを無料で見れる環境を構築しているという。私はてっきり『偽CASカード』をセットボックスに挿入すると思い込んでいたが、少し、理解が違ったようである。CASカードなしで、有料放送を無料で見れるという。チュニジアの悪徳ビジネスは、昨年、日本で問題になった『不正改造B-CASカード』よりもハイテクのようである。

親爺によると、そのスクランブル解除の権利を年間80TND(約4300円)で購入し、そのソフトウェア―業者のサーバーにインターネット接続をすれば1000程の番組を視聴できるという。ご参考までにそのネット機能が付いているSTBは『DreamBox』といい、そのハードウェアー価格は80TND(約4300円)程度であるようだ。番組権利者に対して支払がされているか確認したが、やはり、欧州のCanal+や、ItaliaSky等のDTH業者に対して、その権利金は一切支払われていないらしい。

その親爺の話を聞きながら、かなり悪質なビジネスであると思い、腹立たしい気持ちになった。しかし、現実問題として、チュニジアにおいてはDTHは存在せず、また摘発も行われていないことから、民衆も当たり前のように衛星放送を不正で視聴している。親爺曰く、大統領や首相、政党党首、警察等の本来、知的所有権を取り締まる人々も皆、衛星放送を無料で視聴しているとうそぶいていた。恐らく本当であろう。つまり、チュニジアでは番組権利者に支払っている人は一人もいないということである。事実、フランス系スーパーのカルフールでも、家電売り場にて液晶テレビを展示し、不正スクランブル解除した衛星放送を毎日垂れ流している。間接的に悪徳ビジネスを支援しているのだ。また、前述したスクランブル解除のソフトウェア―業者は、代理店制度のようなものを構築し、その親爺は代理店の一人であるという。闇市場のビジネスであるはずが、堂々と代理店と主張し、公然とビジネスをしているのである。

実際、私がチュンジアに1年以上住んで観察した感覚でも、チュニジアは、知的所有権という概念が非常に薄いという印象を受ける。ビジネスソフトウェアーアライアンス(BSA)という団体の調査では、2011年におけるチュニジアのソフトウェア-の74%が海賊版であるという。参考までに日本のその比率は21%である。

しかし私の感覚では、チュニジアの不正の比率はもっと高いのではと見ている。チュニジアにおいては、知所有権に関するあらゆるアイテムの違法コピーがまかり通っている。どの地域に行っても、CD&DVD店があるが、2TND(約100円)も払えば、音楽のCDアルバムが購入でき、最新の映画のDVDコピーを作れる。また、インターネットにおけるダウンロードの取り締まりも全くされていない。チュニジア人の中には、日本の漫画・アニメ文化に詳しい人達がいるが、この人達も、日本の漫画やアニメを無料でダウンロードして見ているという。世界中のコンテンツがデジタル化されたお蔭で、チュニジアは様々な情報や娯楽に格安または無料でアクセスが可能なのである。(それにより、日本のファンが増えているもの事実であるが。)そもそも正規の値段における市場が存在しないのだ。ブラックマーケットが表のマーケットになっているというのが現状である。

私は何故このような状況になるのであろうと不思議に思っていたが、その親爺の一言で納得した。『コンテンツの権利を所有しているのは皆“外国人”である。取り締まってもチュニジア人で得する人は誰もいないだろう!?』私は一瞬戸惑ったが、『確かに。う~んなるほど。。』残念ながらその通りである。

実はこの“摘発を行わない”という消極的な政策は、ベンアリ時代における“ポピュリズム”の一環だったのではないかと推測する。政府が予算を一銭も使わず、民衆は、衛星放送やインターネットのコンテンツの娯楽を手に入れたのである。当初はこれに対して政府も歓迎したのではないだろうか。その後、インターネットのサイトの管理はしたという話は聞くが、政府はこのインタ-ネットと衛星放送における“情報の力”というものを過小評価していたのではなかろうか。

以前、革命について研究しているカナダの博士号過程の学生と話をしたことがある。革命が起きる理由は、必ずしも貧困の度合に比例するのでないという。民衆が、自分達の置かれている境遇が、他国と比較して劣っていることを知ることによることが引き金になるという。まさに、このインターネットと衛星放送は、その比較する情報や材料を与えるのに多大な貢献をしたといえよう。

最終的に、このインターネットと衛星放送によってベンアリ政権は崩壊した。なんとも皮肉な結果である。

2013年2月16日土曜日

チュニジアのインフレーションについて(1)

2月9日付のロイターの記事によると、チュニジアの消費者物価数(CPI)は2012年の12月から2013年1月にかけて6%(年間換算)上昇した。これは、2008年4月以来、最も高い上昇率であるという。(下図のトレンド参照)特に、食品・飲料品は8.7%、服や靴は7.7%の上昇率だったという。
 
ちなみに、チュニジアも、他国において同様のように、インフレ率はCPIを元に計算される。CPIは都市や地方の家庭によって消費される商品やサービスのバスケットによって構成されている。
Tunisia Inflation Rate
実際にこの1年間、チュニジアで生活をしてみて、昨年と比べると物価が上昇している印象を受ける。身近な所では、昨年まで、町のカフェでコーヒーが60ミリアム(32円)で飲めたのが、最近、1TND(54円)程度かかるようになってきた。また同僚によると、国際空港の駐車場も一日に1~2TNDだったのが、最近は10倍くらいに値上げしたという。チュニジアの物価は、欧州や日本のそれと比べれば未だに安いが、この上昇率はチュニジア人の庶民にとっては痛手であることは間違いない。特に経済が伸びておらず、賃金の伸びが期待できない状況の中で、急激なインフレは庶民には致命的である。

同ロイターの記事によると、チュニジアの中央銀行(CBT)はインフレのターゲットを設定していないが、CBTのChadiAyari氏によると許容範囲は5%程度であろうとコメントしているという。最近の上昇率は、その範囲を超え始めている事がわかる。

それではインフレは何故発生するのであろうか。インフレ発生は複数の要因があるが、チュニジアのインフレは、金融市場の流動性の拡大や、金利、為替等が大きな要因であることを複数の記事が指摘している。

それではまず、金融市場の流動性という意味において、CBTのバランスシートを調べてみた。CBTのホームページにて、2009年から2011年のアニュアルレポートが参照できた。全て市場の流動性に繫がっていないかもしれないが、資産が拡大しているのがわかる。輪転機を回してキャッシュを新たに創出しているという事であろう。上の図の様に、2008年にTND125億だった資産が2011年にはTND157億に増えている。3年間に26%程度バランスシートを拡大しているということである。

実際にDFIのレポートによると、2011年2月にCBTは、TND38.7億の資金を市場に注入したようである。

金利はどうであろうか。これは流動性と相関関係があるはずであるが、CBTのホームページで照会してるマネーマーケットレート(MMR)の月平均レートによると、2011年1月の革命以降金利が下がり始め、2012年1月のMMRは3.16%を記録したが、その後金利は上昇しており、2013年1月の現在は4.11%となっている。

次に為替を見てみたい。この2年間の為替の動向を見てみると(下記図参照)、TNDは対ドルに対して、2011年の4月の1ドル/TND1.37の最高値から2012年8月の1ドル/1.62の最安値になっている事がわかる。約19%の通貨安である。これにより、輸入価格が上昇していることになる。チュニジアはオリーブや小麦粉のように一次産品は海外に輸出しているが、加工商品は輸入して場合が多く、食品や、生活用品もTND安によって上昇する構造になっている。燃料もチュニジアは精製所が一か所しかないことから、ガソリンの半分近くは海外から輸入している。

今までインフレがあまり問題にならなかったのは、チュニジア政府が補助金を利用して価格統制を行ってきたからである。実はCPIのバスケットの3割の商品はこの政府の統制価格によるものであるというので、その影響力は非常に高い。

DFIの調査によると、政府による価格統制は二つのプロセスを用いて行うという。まず、特定の商品や消費財に政府が価格を設定し、そして、必需品の食品や燃料に対して補助金を支払うという。価格を設定している商品の中には、補助金の対象とならないものもある。例えば、コーヒー(商品)や赤肉、電話代等は政府が製造コストとマージンを監視し、政府がマージンの割合を決めているという。

実際にこの価格統制はうまく機能してきた。左記の図が示すように、紫のグローバルな食品の価格と青のグローバルなエネルギーの価格の変動に対して、緑のチュニジアの消費者物価数は安定していることがわかる。2010年初めに始まった世界的な食品とエネルギーの高騰に対しても、チュニジアはインフレの影響を最小限に抑えていることがわかる。(ご参考までにCPIに食品とエネルギーが占める割合は各々32%と、5%である。)

ところが問題は政府の負担額が増大して、この仕組みを維持する事が困難になってきている事である。2011年の補助金は28億TNDであり、GDP比率では4.5%に値するという。2012年のデータはないが、負担は更に増えているようである。この補助金の負担により、チュニジアの財政赤字(GDP比率)は2008年の0.7%から、2011年の3.9%に増大している。

急激なインフレは非常に怖いが、チュニジアはそれを抑制する予算の余裕がなくなってきている。IMF等の指導で燃料の補助金は徐々に撤廃されるという話もある。インフレにより庶民の負担は一層大きくなりそうで心配である。

モロッコに想いを馳せて2(チュジニアより)

現在の私のマイブームはモロッコである。これは以前のブログで紹介したが、22年前にスペインからモロッコに訪問することに失敗し、先週もモロッコへの出張が延期された為、想いが募っている事に他ならない。現在、私の中ではモロッコのポジティブなイメージが拡大しているのである。モロッコは、チュニジアや他のアラブ諸国とは異なる独自の文化を持ち、開放された国に違いない。

実際にモロッコ人に聞くところのよると、モロッコではお祈りはするが、人生を楽しむ事は悪い事と考えていないようだ。ここでモロッコのその開放性や独自性の背景と思われる内容をいくつか挙げたいと思う。この話は本日、モロッコ人の同僚と、昼飯を共にしながら、議論した内容なので、私の思いこみではない事を予めお伝えしておく。

まず民族であるが、モロッコは7世紀によるアラブによる征服後、イスラム教化は進んだものもの、現在でも、40%の国民がベルベル系(他説では50%程度)とされ、3割近くの国民がベルベル語を話すという。比較的、アラブ文化以前の独自の習慣が残されているといえよう。一方でチュニジアは過去の歴史により様々な民族に支配されてきたが、7世紀のアラブによる征服以降は住民の混血化が進んできた。その結果チュニジアでは98%はアラブ系とされており、ベルベル人の人口は1%に過ぎない。

多様性という意味では、1492年のイスラム王朝の『グラナダ陥落』の際は、ベルベル人やユダヤ人が、スペインからモロッコに避難し、これにより独自の音楽や文化がもたらされたという。実際、同僚のモロッコ人の友人に、『Tolerado』や、『Cohen』等のスペイン系やユダヤ系の苗字を持っている人がいるというから興味深い。また、言語もアラビア語であるが標準的なアラビア語とは異なり、独自の方言であるという。単語もあらゆる地域の言葉が混ざっているという。モロッコのアラビア語では靴の事を『Zapat』という。これはスペイン語の靴を意味する『Zapato』から来ている。また、週の事は『Semana』という。これはスペイン語と全く同じである。同僚がエジプト人に『Semana』と言っても全く通じなかったというのは当然であろう。しかし、殆どのモロッコ人は『Semana』がスペイン語から来ていることすら知らないようだ。


歴史的には、1574年から約300年の間、チュニジアがオスマン帝国の影響下にあったのに対して、モロッコは一部の地域を除いてオスマン帝国の属国又は影響化に置かれなかったようだ。モロッコはアルジェリアまで進出したオスマン帝国を退け、キリスト教徒との戦いでもポルトガル軍を破ったり、独立的な機運が強かったようだ。同僚によるとこのオスマン帝国時代の300年の違いがチュニジアとは食生活等の文化面で大きく分かれた理由であるという。

また、19世紀のフランス帝国主義の影響化において、アルジェリアがフランスの『植民地』だったのに対して、モロッコやチュニジアは『保護領』であった事も大きな影響を及ぼしたという。この統治の方式によってモロッコの王朝は存続した。20世紀の独立運動の際には、リビアのカダフィーや、エジプトのナサール、チュニジアのブルギバが王政を打倒したが、モロッコやシリアにおいては王朝は継続された。これが最終的にイスラム教とは別に、人々の心の拠り所として存在しているのは事実であろう。


更に、北部リーフ地域や現在の西サハラはスペイン領土になったことも、近代においてモロッコがフランスの影響のみならずスペインの影響も受けた多様性に繫がっている。タンジェはその都市がドイツとフランスの争いの場になったことから、1923年に『国際管理地域』となり、様々な外交官や、ビジネスマンが集まる国際的な都市になり、これもモロッコの国際的な国の特徴の一つとなっている。

最後に、近年ではモロッコが近代化し、人々が開放されている理由は、経済の市場開放であるという。モロッコは早くからIMFの管理化に置かれ、現在では欧州、米国、トルコ、エジプトと自由貿易協定を結んでいる。これらの市場開放によって、人々の生活様式等が変わりつつあるようである。『市場経済主義』はイスラム教徒の行動も変えるほど影響力が強いという事なのであろうか。

実は22年前の失敗から学び、禁酒していた甲斐あって、来週ようやくモロッコに出張できそうである。モロッコとは実際にどのような国なのであろうか。自分の目で確かめたいと思っている。禁酒はモロッコに着いてから解禁しようと思う。

2013年2月14日木曜日

日本人が『フォークランド紛争』から学ぶこと


多国籍企業や国際機関で働く醍醐味とは、様々な国の出身の同僚や顧客と出会うことであろう。時には、日本人同士で分かり合える阿吽の呼吸が通じなかったり、当たり前であると思っていた常識が異なったりして戸惑うこともあるが、しかし、それ以上に、新しい知識や、新鮮な考え方やに出会える素晴らしさがある。

本日はイギリス人の同僚と昼食と食後のコーヒーを飲みながら、面白い話をしたので、忘れないうちに紹介したい。彼は私より10歳以上年上であり、深い造詣と知識を持ち合わせており、尊敬をしている友人である。共にアフリカにおける代替エネルギーのプロジェクトを行っているが、最近はお互い冗談を言い合うほど気を許す間柄になりつつある。

まず、昨今のチュニジアやアルジェリアにおけるイスラム過激派の動きに始まって、尖閣諸島や竹島を象徴とした日本の地政学的な話題になった。彼曰く、現在、世界情勢は日々変化しており、唯一のスーパーパワーであるアメリカの立場も変化しつつあり、イギリスも日本も独自の道を歩むべく、時代の流れを読む必要性があると説いていた。イギリスにおいては、軍隊の仮想敵国が未だに冷戦時代のソ連から抜け出せないメンタリティーが残っており、新たな世界秩序に対応をしていないことを嘆いていた。

そのような状況を変えるためには、イギリスも日本も新たな時代に向けて、軍事力のみならずソフトパワーを身につける必要があるという。特に目まぐるしく変化している北アフリカや中東をはじめとする国際政治の重要地域の専門家を育てたり、その専門家に若いうちから言語や文化に親しませることは極めて大切であるという。それが故にイギリスにおいては007で有名なM16と呼ばれる諜報機関が存在し、各地域における情報収集に努めたり、その専門家を育てていると力説していた。

その後、フォークランド紛争(西:マルビナス戦争)の話題になった。フォークランド紛争は1982年の3ヶ月間に渡ってイギリスとアルゼンチンの間に起こった戦争である。この戦争は、子供の頃、兄が中学校の夏休みの自由研究で扱ったテーマなので、私も何となく覚えている。又、学生時代のゼミの教授がアルゼンチンの専門家であり、ペロン政権の左翼・ポピュリズム政治から、1976年のクーデーターによって、ホルヘ・ビデラ並びにレオポルド・ガルチェリの軍事政権に移行した時代背景について学んだことを思い出した。

同僚によると、イギリス政府は紛争が起こる前に、フォークランド諸島における潜水艦等の主要な軍備を撤去しており、これが故に戦争が起きたと指摘している。つまり、抑止力がなかったのが最大の原因であるという。アルゼンチンの軍事政権は、経済の低迷から民衆の不満をそらすために軍事行動を起こしたが、この動きをイギリス諜報機関が読めず、アルゼンチンの軍事政権を過小評価していたのも戦争の要因になったようだ。最終的にこの戦争でイギリス軍は派遣した多数の艦船と乗組員を失った。何とか揚陸作戦を成功させたことにより、最終的に勝利を収めることが出来たということである。

ここで、真面目な話だけで終わらないところがイギリス人である。このイギリスから遥か遠い南米の島に軍隊を派遣することについて、英国内では否定的な意見が多かったという。しかし、最終的にこの戦争を決意したのが“鉄の女”マーガレットサッチャーである。『この内閣には男が一人しかいないか!?』と一喝したことによって、イギリス政府は渋々戦争に踏み切ったという。また、同僚は、如何にサッチャー独裁的首相であったか、それにまつわるジョークを紹介してくれた。本当かどうか判らないが、閣僚を野菜と勘違いするほどの独裁ぶりであったという。

サッチャー首相がレストランで閣僚と食事をしている際、
Waitress: Would you like to order, sir?
Thatcher: Yes. I will have the steak.
Waitress: And what about the Vegetables?
Thatcher: Oh, they'll [The Cabinet] have the same as me!

これは時のサッチャーが如何に肉食的(男性的)で、閣僚が草食的(女性的)であったかを比喩している。

また、戦争後の、フォークランド諸島は酷い下痢が蔓延したという。これをイギリス人は『ガルチェリによる復讐の下痢(Diarrhea, Galtieri's revenge)』と呼んでいるという。同僚が腹を抱えながら笑っていたのが滑稽であった。

以前、通信の仕事をしていたが、世界で活躍しているイギリス人の何人かに会った事がある。植民地や離島で働いていたイギリス人はケーブル&ワイアレス(C&W)に勤務していた人が多かった。香港における衛星会社の社長はC&Wの出身であった。香港テレコム(PCCW)の当初の名前は『Cable & Wireless HKT Limited』と呼ばれ、イギリスの植民地時代に設立された会社である。またオランダの衛星会社に勤めていた運用責任者もC&W出身であった。ハーグで食事をした際、同氏が若い頃にフォークランド諸島に駐在した際の苦労話をしていたのを覚えている。

ちなみに、金融やエネルギーの世界でも多くのイギリス人が活躍している。かつて勤めた外資系のエネルギー会社の上司もイギリス人であった。彼らのプロジェクトに対する洞察力は鋭い。彼らはリスクに対して敏感であるが、ある時はリスクをチャンスと見て、大胆にそのリスクを取ろうとする。イギリス人はリスクとチャンスが表裏一体であることをそのDNAに染み込ませているのだろうか。これは大英帝国時代における世界中の植民地支配から、国際情勢に合わせて、失敗をしつつもも、柔軟に生きてきた証かもしれない。イギリス人から学ぶことは多いと思った。

2013年2月11日月曜日

アフリカ・ネーションズ・カップ(決勝)

 
Nigeria celebrate winning Africa Cup of Nations 2013本日、CANの決勝『ナイジェリアVSブルキナファソ戦』をテレビ観戦した。本日に至るまで、ナイジェリアは、優勝候補のコードジボアールとマリを破り、ブルキナファソは、トーゴと強豪のガーナに勝っての堂々の決勝進出である。

決勝は19:15(チュニス時間)からのキックオフである。近所のカフェでチュニジア人の友人と共に観戦した。テレビ中継はアラブ語で行われていたので時々説明を加えてもらいながらの観戦である。ちなみに、本日のチュニスは雨上がりで寒かった。カフェの中の席は他の客でいっぱいだったので、入口近くのオープンスペースで震えながらの観戦である。

試合直前に南アフリカのズマ大統領が両チームの選手を労っていた。南アにとってもこの大会に注力していることがわかる。ちなみにこの大会のスポンサーはOrangeである。親会社はフランステレコムで、チュニジアをはじめとした主にフランコフォン(仏語系)の諸国に進出している携帯会社である。試合は、FIFAのチェアマンであるジョセフ・ブラッターや、CAFのチェアマンであるイッサ・ハヤトウが見守る中行われた。

ご参考までに、ナイジェリアとブルキナファソは共に西アフリカに位置しているが、その国の性格は大きく異なる。ナイジェリアはアングロフォン(英語系)であり、ブルキナファソはフランコフォン(仏語系)である。国の規模もナイジェリアの人口が約1億6千万で、GDPが2390億ドルの大国に対して、ブルキナファソは人口が約1600万人で、GDPが220億ドルの小国である。つまり、経済の規模も人口も10倍ほどの差がある。

国歌斉唱の際に選手の顔を見てても、そのチームのカラーは異なっていた。ナイジェリアの選手がオーソドックな髪型と真面目な態度に対して、ブルキナファソの選手は、髪を金髪に染めてたり、鶏冠の様な髪型をしていたり、顎鬚のみを金髪にしていたり、個性豊かな雰囲気で対照的であった。これはイギリスによる統制を重んじた植民地化と、フランスのどちらかと言えば現地融合型の植民地スタイルの違いによる影響なのであろうか。

Always in control: Sunday Mba flicked the ball over a defender with his right, before firing home the only goal of the final with his other foot試合はスピードに溢れるゲームでエキサイティングであった。両チームとも身体能力のぶつかり合いのゲームである。サブサハラの独自のリズムにおけるドリブルやオーバーラップは見ごたえがあった。両チーム共、若干雑なプレイが多く、組織力という意味では日本のチームの方が上であると感じた。しかし、私は、日本のバックパスが多いまどろっこしいサッカースタイルよりも、アフリカのサッカーに魅力を感じ始めている。アフリカのサッカーは極端に言えば、メキシコのプロレスの“ルチャ・リブレ”を見ているような感覚である。

前半はナイジェリアが若干押していたゲームであったが両チームの間にさほど力の差があるようには見えなかった。しかし、前半39分にナイジェリアが均衡を破る。ナイジェリアのMFのSunday MBA(Warri Wolves F.C.)が味方選手から受けたバスを、左足でボールで上げ、相手をかわし、落ちてきたボールを右足でダイレクトにてシュートを決めるという演出を見せた。正に決勝の大舞台に相応しい“スーパーゴール”である。後半はブルキナファソが追いつこうとして必至であったが、ディフェンシブなナイジェリアから点を挙げることが出来なかった。他にナイジェリアの選手ではJohn Obi Mikel(英Chelsea)や、Victor Moses(英Chelsea)が素晴らしいプレーを見せていた。ブルキナファソのチームはJonathan Pitroipa(仏Stade Rennais F.C.)が鋭い動きを見せていた。

最終場面の92分に、ナイジェリアのゴールキーパ-の目の前で、審判が笛を吹いた。ゴールキーパーはPKを取られたの思い審判に抱きつき必至に抗議をするが、なんと、その笛は“試合終了”の笛であった。

今年のCANも楽しませてもらった。2年後はアフリカのどの国でCANを見れるのであろうか。早くも楽しみである。
 

『世俗主義』か『イスラム主義』か


 『世俗主義』か、『イスラム主義』か。この選択が現在、チュニジアにおいて国民を大きく揺るがしている問題ではなかろうか。この問題はアルジェリア、エジプトやその他のイスラム諸国においても同様であると思われる。

ショクリ・ベルイード氏が暗殺された理由も、同氏がチュニジアのイスラム傾倒化を批判していたことに起因するのかもしれない。同氏は、イスラム過激派(サラフィスト)の数々の犯罪に対して、アンナハダが厳格な処置を怠っているという批判を繰り返していた。複数のメディアによると、その批判により、同氏は数々の脅迫を受けていたと家族が明かしているそうだ。

現在、新憲法においてもこの問題が注目されている。今のところ、憲法草案の準備委員会はイスラム法(シャリア)の位置づけを憲法に含むことを回避しており、エジプトで起こっているような基本的な法律に対する混乱には至っていない。しかし、世俗派はチュニジアの政治がイスラム主義者たちによってシャリア重視の憲法草案に傾き、人権や男女平等が保証されなくなることを懸念している。

それでは、一体、イスラム法に基づくこの人権や男女不平等の考え方とはどのようなものであろうか。

まず、イスラム教の聖典『コーラン』では、女性は男性より劣位にあり、保護されるべき存在であるとされている。そのため家族においては低い地位が定められ、弱い女性を保護するという目的で一夫多妻制ができたという。また、女性は男性を誘惑するものとされたため、その害悪を予防するためにヒジャブやブルカに代表される種々の男女隔離の習慣ができたとのことである。これらにより、一夫多妻制、結婚、離婚、暴力等に関する様々な女性に対する差別がイスラム諸国において発生している。実際にイスラム諸国において、女性差別撤廃が進まない理由として、イスラム諸国がイスラム法を理由として差別撤廃を留保している為である。

次に、チュニジアにおける、この『世俗主義』と、『イスラム主義』の歴史を振り返ってみたい。

イスラム教は、7世紀、アラブの軍隊が北アフリカを制圧した際に広がったといわれる。その後チュニスやケロアンの都市はイスラム教における教育の中心となった。一方で世俗主義は1881年のフランスの植民地時代からもたらされ、社会おいてもその考え方が導入された。

1956年チュニジアの独立後、世俗主義の考えはハビブ·ブルギバ大統領によって強化される。同大統領はイスラムの伝統がチュニジアの近代化を妨げていると考えており、30年間に及ぶ統治下において、家庭や、公共における新たな政令を導入した。それは主要な分野における男女の平等権利の確立、ヒジャブの制限、イスラム学校やイスラム裁判所の閉鎖等であるという。1987年以降のベンアリ政権が誕生すると、イスラム教徒に対して弾圧が加えられる。1989年においてアンナハダが選挙で多数の票を獲得した後、何千ものイスラム教徒が投獄された。イスラム派の動きが社会に対する脅威であるとの理由からである。ベンアリ統治下ではヒジャブに対する更なる制限や、公共の場におけるお祈りが禁止された。同僚の話によると、ベンアリ政権においては、モスクでのお祈り時にはイマーム(導師)がベンアリを崇拝するように説いていたという。

このヒジャブ着用禁止令は、2011年1月のジャスミン革命直後に撤廃されたという。実際、私がチュニジアに住み始めてからのこの一年以上の間においても、ヒジャブを纏う女性が増えてきているという印象を受ける。更に、サラフィストによりアルコールを扱っている店を襲撃しているような事態が地方において頻繁に起こっているが、アンナハダはサラフィストに対して取り締まりを強化していないように映る。現在、ベンアリ政権下における世俗的な支配から揺れ戻しが来ているのは否めないだろう。

宗教の問題は正直、複雑で解りにくい。しかし、基本的な人権は性別に関わらず普遍的なものであるべきと思っている。チュニジアは女性による高等教育の進出が男性を上回っているように、男女平等の確立に注力してきた。失業率が多く、就職が困難にも関わらず、私が知っているだけでも多くの女性の医者、弁護士、エンジニアが社会進出をしている。男女の平等が保証されない社会には断固反対である。

2013年2月10日日曜日

香妃園(特製鳥煮込みソバ)

六本木に『香妃園』という中華レストランがある。現在は、『瀬里奈』の近くにあるが、かつては六本木駅の近くの小さなビルにあった。昔の中華風の異国情緒が溢れる店であった。

実はこのレストランは両親が初めてデートしたところなので、子供の頃から家族で頻繁に訪れている。正確に言うと、私は母親のお腹の中にいるときから通っているので、その歴史は長く、愛着も深い。20年前位に駅前の『香妃園』が突如無くなったときにはショックであったが、数年後に、移転した店を発見した時にはほっとした記憶がある。夜遅くまで開店しており、その後も何かと理由をつけては訪れている店である。
 
この店といえば、有名な一品は『特製鳥煮込みソバ』である。土鍋で長時間において煮込まれた白湯のスープに、青菜と共に入っているソバは絶品である。ソバも“ラーメン”と“うどん”の中間のような触感で、スープと絶妙なコンビネーションを醸し出している。正直、この味は私にとっては中毒となっており、海外生活を始めてこの一品が食べられないのが辛い。
『特製鳥煮込みソバ』(香妃園)
 
子供の頃に母親にせがんで、この『特製鳥煮込みソバもどき』を家庭で作ってもらった事がある。プロの料理人でないとこの一品を作るのは難しいと思ったが、母親が似たような味をつくってくれて感動した。確か、麺は細いうどんを代用したと記憶している。
 
チュニジアに移住して、六本木には簡単に行けないが、『特製鳥煮込みソバ』は恋しい。どうしたものかと思っていたが、かつて実家で類似した一品を作ってもらったことを思い出し、結局、自分で挑戦することにした。ちなみに私はあまり料理は得意ではないが、インターネットのレシピ情報も得て、見よう見まねでやってみた。
 
チュニジアは野菜や肉の具材は豊富にあり、しかも安い。青菜の代わりのローメンレタス(1個)、玉ねぎ(1個)、ネギ(1本)、人参(1本)、葫(1個)で2TDN(110円位)である。鶏肉丸ごと一匹は5TDN(280円位)である。ガス代も安い。100平米のアパートで約1600円位/月であり、しかも火力は日本の台所と比べると強い。麺は日本で調達した『讃岐うどん』を代用した。


『特製鳥煮込みソバ』”もどき”??
Made in Tunisia
あまり細かい事は考えず、兎に角、具材を鍋にぶち込んでみた。鶏肉の解体の仕方が判らず、鶏肉一匹を丸ごと茹でていたが、鍋の大きさに対して肉の量が多すぎることに気づき、途中で肉の部分は食べてしまった。スープは長時間茹でてるうちに、色が段々変わっているのがわかる。煮込む事、約4時間。何回も塩を入れたり、味見をしたりして、ようやく『特製鳥煮込みソバ』の味に?なんとなく近くなってきた。結果は『C'est pas mal(悪くはないね。)』 であろうか。

本日(土曜日)のチュニスは雨であった。しかも寒かった。アンナハダがブルギバ通りにて大集会をするというので、外出はなるべく控え、日本を想いながら、料理をしてみた。料理は忍耐と片づけが要求されるので私にはあまり向いていない。しかし努力の甲斐あってか、子供の頃と同じく、『特製鳥煮込みソバもどき』で満腹である。特に望んでいるわけではないが、明日からはコラーゲンで肌がすべすべになるかもしれない。

2013年2月9日土曜日

ショクリ・ベルイード氏暗殺事件(2)

People carry the coffin of murdered opposition leader Chokri Belaid during his funeral procession in Tunis on 8 February 2013.本日(2月8日)、チュニス南部の墓地において、ショクリ・ベルイード野党指導者の埋葬が行われた。アルジャジーラの記事によると、4万人の程の群衆が葬儀に集まり、反政府のスローガンを訴えられたという。更にこの状況に乗じて、若者の群衆が墓地の周辺にて車を破壊した。警察により催涙ガスが投げ込まれ、100人以上の逮捕者が出た事態も起こったようだ。

チュニジア労働総連盟(UGTT)を中心としたゼネストも行われた。ゼネストの影響により、国際便の大半も欠航となった。殆どの商業活動が休止され、町は閑散とした雰囲気であった。ショクリ・ベルイード氏の支持層が労働組合であった為、暗殺に対する抗議を目的とした意味合いが強いようである。

ブルギバ通りの内務省の近くにおいても群衆が集まり、抗議デモが行われたようだ。ある情報によると午後5時位にはデモは収まったという。勤務近くのモハメッド・サンク通りを見ただけでも、小型の戦車や、多くの警察官が配置されていた。ブルギバ通りにおいては緊急事態を想定して、相当な警備がされていたと思われる。

未だに余談を許さない状況であるが、本日、チュニジアにおいて、様々な抗議は行われたものの、政治的又はイデオロギー的な深刻な衝突は起こらなかったようだ。今のところ、最悪の状態は回避されていると言えよう。

しかし、今回の事件で感じたことは、結局、真相が明らかにされていないということである。既に遺体は埋葬されてしまったが、死体解剖によって、銃弾がどの銃によるものなのか発表はされていない。また、狙撃された角度や犯行状況等が十分に検証されたとも思えない。『ニューヨークタイムズ』によると、内務省の大臣は目撃者がいる事を認め、未確認の二人のガンマンが4発の弾丸と共に、ベルイード氏を暗殺したと言及している。しかし、本日発行の『EcoJournal』週刊誌によると、内務省は、狙撃犯を認定する為の証拠や詳細について未だ情報を得ていない事を発表しているという。

一方でショクリ・ベルイードの遺族、特に父親はアンナハダの党首ガンヌーシを批判している。更に、人民戦線党首のAouini氏も『未だに殺人者が誰なのかは知られていない。しかしこの殺人実行の指揮はアンナハダによって実施された。』と大胆にも与党を批判している。事実、国民はアンナハダを疑惑の目で見ており、それが故に現政権の批判が行われ、6日より群衆はチュニスや地方都市でアンナハダの事務所を襲っている。

しかし疑問に思うのは、アンナハダがショクリ・ベルイード氏を暗殺するメリットがあるかということだ。これによって全ての野党が一致団結し、アンナハダの存在を脅かすのは明白である。選挙にも悪影響が出るのは間違いない。客観的に考えると、民主主義体制に移行したチュニジアにおいて、与党が野党の指導者を銃で暗殺するような計画を行うとは思えない。この混乱を創出することによって、メリットを得る誰かが暗殺を計ったとしか思えない。

この事件後、ジェバリ首相は総選挙が行われるまで、どの政党にも属していないテクノクラートで構成した政権を画策していると発表しているが、この考えに対してアンナハダは猛反発をしているという。未だに事件の真相は謎であるが、裏舞台において様々な事が起こっていると察する。これらの裏の話が表舞台に出てこないのは、チュニジアが民主主義になっても隠蔽体質が変わらないからであろうか。

2013年2月7日木曜日

ショクリ・ベルイード氏暗殺事件(1)

本日(2月6日)朝8:00頃、「民主愛国主義運動(PPDU)」のショクリ・ベルイード党首が暗殺された。自宅を出たところ何者かに狙撃されたという。犯人は未だに捕まっていない。

まず第一報は昼食時に同僚から聞いた。ベルイード氏は頭と胸を撃たれたという。革命後、今までデモ等が発展して起きた事件はあったが、私の知る限りはこのような暗殺は聞いたことはない。凶悪犯罪の少ないチュニジアでこのような事件が起きたのはショックであった。今年は総選挙がある重要な年なのに、何故このようなことが起きるのだろうか。正直、事件が及ぼす影響について考えると戸惑った。

午後14:30頃であろうか、勤務先の近くのモハメッド・ハムザ通りから大きな声が聞こえてきた。本日はこの事件を受けてブルギバ通りで抗議のデモが行われるという。大勢の人がモハメッド・ハムザ通りに向かっていく様子が見えた。ブルギバ通りはこのモハメッドハムザの場所から約1KMのところにある。

私はモハメッド・ハムザ通りの近くに停めていた車が心配になり、状況を確認しにいったところ、偶々、チュニジアの旗を掲げた救急車が、多くの歩行者と共に移動しているのが見えた。ショクリ・ベルイード党首の遺体が収容されているという。デモはこの遺体をブルギバ通りの内務省前まで運び、抗議を行う予定らしい。

その後、デモに参加する為にブルギバ通りに南下するもの、避難する為にブルギバ通りの方から北上するもの、帰宅しようとして西の方の街道に移動する車で道は混乱していた。正直、本日、デモが発展し、帰宅できないような事態になると困ると思っていたが、混雑は17:00頃には緩和した。正直、仕事をしながらも、一日中落ち着かない日であった。

帰宅後、近所のチュニジア人の友人に聞いたところ、デモは数百人規模が行わていたという。ブルギバ通り近くのパリ通りでは、警察により催涙ガスがデモに対して投げ込まれて混乱していたようだ。彼はデモとはまったく関係がない単なる通行人に過ぎないが、催涙ガスに巻き込まれ散々だったと嘆いていた。後でテレビで確認したところ、ブルギバ通りの内務省の前は鉄線で閉鎖され、大勢の警察官が配置されていた。おそらくデモは内務省の前までは行けず、ブルギバ通りの対面や、周辺の通りで抗議していたと思われる。

友人によると、ショクリ・ベルイード氏は過激な発言で有名であり、最近は、与党のアンハナダに対して、経済・政治改革の遅れや、イスラム過激派による影響について非難を強めていたという。イスラム主義とは一線を画しているようだ。また、PPDUの元々の思想はマルクス・レーニン主義であるという。

犯人は未だ捕まっていないが、暗殺に銃が使われ、計画的犯行の可能性が高いのは非常に不気味である。今後、抗議のデモは拡大する可能性もあり、この数日間注意が必要であろう。特に今週の金曜日が心配である。これ以上、チュニジアが悪い方向に進まないことを祈っている。

2013年2月6日水曜日

21世紀はアフリカの時代


January 2013『アフリカの時代~どの様に21世紀を支配できるのか~』これは1月号の『African Business』誌の主題である。少し過激なタイトルと思いつつ購入して読んでみた。

同誌によると、『最速の十億人』の著者である経済学者チャールズ·ロバートソン氏は、現在、アフリカでは経済革命が起こっており、現時点の経済成長率が継続するのみならず、今後40年間、更に伸びる可能性があることを述べている。この成長が達成できれば、2050年のアフリカのGDPは”現在”の米国とユーロ圏を合算した規模になるそうだ。更に、アフリカの成長は2050年までに、アジアの成長を上回る可能性があると主張している。(参考までに2000年代のアフリカの平均成長率は5.6%で、世界平均の約2倍である。)

この予測について、経済学者の中には、あくまで希望的な観測であり、楽観的であると考えている人がいるという。これについてロバートソン氏は下記の根拠と共に反論している。

1.アフリカは経済が飛躍する社会的な変革過程を本格的に享受する段階に入ったこと。
  (1)農業社会から工業社会、2)独裁政治から多元的な中間層社会、3)情報化社会の創出。)

2.アフリカは広大な大地と天然資源を抱え、魅力的な人口構造を抱えていること。

3.アフリカは植民地時代、またはポスト植民地時代の失敗を乗り越えたこと。
  (天然資源等を目的とした代理戦争、アパルトヘイト等)

4.アフリカはマクロ経済の管理がうまく行っていること。
  (IMFや世銀の支援により、債務の減少、インフレ率の低下)

5.アフリカは民主主義の過程が進んでいること。
  (1990年に民主主義国家は3か国であったのが、2012年には19か国に増えている。)

さらに、ロバートソン氏はアフリカが成長する可能性について、ナイジェリアのノコジ・オコンジョ・イウェアラ金融大臣が引用した一説を紹介しながら反論している。

『民族や宗教による複数の戦争、栄養失調、そして非識字によって引き裂かれた大陸を想像してみて下さい。その大陸は、曖昧に決められた国境、植民地時代の傷跡、外国諸国からの介入により、状況が複雑化されております。一人当たりのGDPは400ドル程度です。膨大な人口のごく一部しか初等教育を受けることができず、その権威主義的支配者は、地域の豊かな天然資源によってもたらせる収益を、国家の優先事項ではなく、個人の為に利用しています。このような状況の中で、民衆の生活を維持するのは非常に困難なのです。』

『さて皆さん、これはどの大陸の事を指すと思いますか?アフリカ大陸と思うでしょう。』『それは間違いです。これは1970年代の”アジア”について述べている内容です。』

イウェアラ大臣によると、アジアは世界で最も速い経済成長を遂げるまでに、200年間もの没落、帝国による支配、経済の沈滞を経て今日の繁栄があったことを説明している。そして、経済予測を行う学者の最大の問題は、人間の“精神”を無視していることであるという。歴史家は少なからずも世界の偉大な帝国については記述をするが、敗北して、破壊して灰の中から這い上がった人々については記述しないという。『この敗北して破壊された人々がその時代に適応し、力強く、そして豊かに生きていくのであり、頑固で柔軟性に欠けるものは、枯れて、衰退する運命にあるのです。』ロバートソン氏や同大臣に言わせれば、1970年代に、経済学者がアジアの経済予測を著しく誤ったように、アフリカ人が飛躍的な経済成長を遂げられない理由はないということである。

この記事を読んだ感想であるが、私も基本的には同じ考え方である。今後アフリカは、紆余曲折を経ながらも、着実に成長の道を歩んでいくと思っている。過去10年の経済成長は資源やコモデティーの高騰によって支えられた部分が多いが、ロバート氏が指摘するように、今後はブラックダイアモンド(中間所得者)に支えられた市場の成長を本格的に享受する時代に突入するだろう。そして、様々の分野において、若い企業家やビジネスパーソンが活躍する時代がやってくると信じている。

日本人の大半はアフリカ人には能力がなく、民主主義的な国家運営を行い、経済成長を継続するのは難しいと思っているようだが、それは大きな間違いであると断言できる。私は北アフリカやサブサハラ出身の多くの顧客や同僚と働いているが、その能力の高さには日々驚かせられている。また、彼らが企業家精神を持って未来を開拓しようとしている姿勢も見ている。私はアフリカがアジアの経済成長を上回ることになっても特に驚かない。むしろ、イウェアラ大臣が指摘しているように、日本人がかつての創造的で、野心的なスピリットを失い、自らが優秀だと過信しながら、衰退してしまうのではないかという事を懸念している。

2013年2月3日日曜日

チュニジアの失業問題について


チュニジアに住み始めて、まず感じたことは若者がやたら多いということである。道でも、カフェでも、店でも、近所でもあらゆるところに若者が溢れている。チュニジアの人口(2012年)は約1100万人であるが、CIAWorldFactBookによるとチュニジア人の中央値(2012年)は30歳であるという。日本人の中央値(2012年)は45.4歳であるので、チュニジアの人口が若いことは明白である。

最初の頃は、若い男がカフェで平日の昼間からたむろをして、コーヒーを飲んだり、水パイプを吸って時間を過ごしていることが気になった。その多くは失業者という。何故働こうとしないのか不思議であったが、働こうにも職がないのが実態のようだ。しかも、その多くが高等教育(大学以上)を受けた若者である。チュニジア統計研究所によると2011年の失業者は75万人存在し、失業率は18.9%(男15.4%、女28.2%)である。15歳~24際の若者の失業者は42.4%、高等教育を受けたものは30.5%でという。この統計からも判るように、若い人が職を得られず、社会的にも不安定な構図になっている事がわかる。

実際、ベンアリ政権は教育に注力しており、チュニジアは教育への投資比率が高い。少し古いデータだが、国連人間開発プログラムによると、教育に対する投資はGDP比率で6.4%(2000~2002年)である。(参考までに同時期の日本の比率は3.6%)。基本的にチュニジアの教育は無料であり、高等教育を受ける割合は高い。ERP Policy Reserchによると、2008年時にはその比率は31%である。2011~2012年の間に、公立の高等教育に従事しているものは33.96万人であったが、その61.6%が女性であるという。(上記表参照)

それでは、この高等教育を受けた人をはじめとする、高い失業率の構造的な問題について考えてみたい。

まず最初に、結果と言えばそれまであるが、卒業者を含めて若い人口の急増による労働需要に対して、供給が追いついていない実情を指摘したい。ESC Tunis, URMA – FSEG Tunisの『Determinants of Graduate Unemployment in Tunisia』レポートによれば、2001~2009年の間に、年間平均7.3万人の雇用、全期間で66万人の雇用が創出されたが、89.3%の需要しか満たしていなかったと説明している。

二つ目の理由として、IMFが作成した『Staff Report for the 2012 Article IV Consultation』レポートによると、ベンアリ政権時代のビジネスモデルは付加価値の低い産業、特にスキルが必要としない輸出産業や観光等に注力をしてきたという。ディナールを基にするチュニジアの労働賃金は、賃金交渉や、強硬な管理、時には為替の介入によって抑圧されてきた。この体質が、雇用と労働需要のミスマッチを生んだと指摘している。その結果として、チュニジアの経済は観光セクターや、輸出先において、ヨーロッパ市場に依存せざるを得ない体質になってしまったという。分野の詳細は不明であるが、CIAWorldFactによると、2009年の産業別の雇用は農業18.3%、工業31.9%、サービス49.8%となっている。チュニジアは石油、リン、農業製品、自動車パーツ製造、観光等の一次製品の依存が高い。付加価値の高いサービスや製品にシフトして雇用を創出する事が求められているようである。

実際にチュニジアに来て最初に感じたことは、経済活動における活気が少ないということである。あらゆる産業において市場が開放されておらず、競争を促進していない印象を持った。市場構造においては、独占企業が多く、WTOに加盟する前のベトナムに似ていると思ったほどである。統計的には直接外国投資は伸びているものの、実際にはリーテールにおいてマクドナルドやスターバックスのような外資のファーストフードは存在しないし、スーパーのチェーンはカルフールとモノポリが独占している。マガザン・ジェネラルというチュニジア最大の小型スーパーチェーンのオーナーのタハールベヤヒ氏によると、『革命前はベンアリ政権がカルフールとモノポリに近い関係にあり、競争を行うのに不利な条件であった。』という。ベンアリ政権は市場を開放して消費者や労働者に利益を与えるよりも、ビジネスチャンスの入口を押さえ、自らの利益の拡大にひた走ったのではないだろうか。

最後に、失業率はジェンダーとも関係しているようである。統計(左表参照)を見ると、1980年より女性の失業率は男性のそれよりも超えている。これは女性の高等教育の進出によって、新たな労働市場が生まれたが、それを吸収するような労働市場になっていないことがわかる。

上述したESC Tunisのレポートによると、婚姻している女性は、独身の女性や離婚した女性より失業の比率が高いという。一方で婚姻している男性は独身の男性や婚姻している女性より雇用の比率が高いされている。これは社会的にも、女性、特に婚姻している人に対して雇用の差別が存在するからと指摘している。また、婚姻している男性を雇用する傾向は、即戦力を採用する傾向にあり、日本のようにリクルーター等を通して学生が就職活動が出来るような環境が整っていない事にも起因していると思われる。

失業率を改善する為には、公共セクターによる雇用増大のみならず、プライベートセクターの拡充が必要であるが、当面は外資や外国への輸出に依存せざるを得ないであろう。チュニジアはヨーロッパと目と鼻の先なので多くのビジネスチャンスが存在するはずである。車のパーツや、コールセンターで成功を収めてきたが、港や空港等の物流インフラを拡充して、ヨーロッパ向けにダイレクト・カタログ販売、さらにはアマゾンのようなオンラインサービスのハブを構築することはできないであろうか。また、既に始まっているが、チュニジアの高い医療技術、安価な医療費、豊富な医者を基に、医療観光を推進することも可能であろう。更に、フランス語圏市場向けに、インドのビジネスモデルのように、会計・税務、法律、コンサル、調査等のアウトソースの受け口になれる可能性は十分にある。対外的には、同じフランス語圏である成長著しい西アフリカの社会資本の事業等に打って出るような事は出来ないのだろうか。

その為には市場の開放、外資の受け入れ、競争環境を促進するような体制が必要である。チュニジアは労働人口が若く、教育水準が高い。方向性さえ間違わなければ、成長するポテンシャルが高いと信じている。