私がアフリカへ移住を決断したことに対して多大な影響を与えた人がいる。その方は私がかつて働いていた外資系のエネルギー会社の役員であり、偶々であるが、私が最初に勤めた総合商社の大先輩でもある。大変尊敬をしている方である。
その外資系エネルギー会社が10年以上前に倒産した際には、社員は次の職場を探さざるを得なかった。通常は企業における働き口を探すが、その先輩の場合は型破りであった。しばらくの間、自ら起業をした後に、最終的にリビアにおいて就職先を選んだ。2005年の愛知万博の際に、セイフ・カダフィーの案内役を務め、小泉総理に引き合わせたことで信頼を得たようだ。その後、彼はリビア政府に対するインフラのアドバイザーとして、トリポリに滞在する。彼は商社時代に培ったリビアにおける人脈を大切にしていたお蔭で、このような機会に恵まれたという。
2011年8月に横浜でその大先輩と食事をしながら、アフリカへの転職に関して、個人的に相談をさせて頂いた。彼が私の背中を押してくれたのは言うまでもない。その頃、既にリビアでは内戦が起こっており、彼はリビアから退避せざるを得なくなっていた。食事をしながら、先輩からはカダフィ-の親衛隊がトァレグ族から成り立っている事や、現在苦戦を強いられているが、その親衛隊の戦闘能力が高い事などを教わった。
実はカダフィーとトァレグ族の関係は歴史的に深い。元々トァレグ族の多くが遊牧民であるが、1970年代にカダフィーが『イスラム軍隊』を創設した際に、多数のトァレグ族が参加したという。当時サヘルにおいては干ばつが起こっており、多くのトァレグ族は経済的にもカダフィーに頼ったという背景もあったようだ。このイスラム軍隊は北アフリカにおいて『統一イスラム国家』を創設する事を目的としており、チャド、スーダン、レバノンにおいて戦闘が行われたという。しかし80年代の後半にはイスラム軍隊は解体され、多くのトァレグ族がリビアに残ったようである。
またカダフィーはトァレグ族の近隣国における反乱を支援していた。トァレグ族はマリとニジェールにおいて長年において政府と戦闘を度々起こしており、一方でカダフィーはその度に和平の調停役を名乗り出て、トアレグ族の聖域を確保してきたようである。
カダフィー政権崩壊後、マリや、アルジェリア、チュニジアまで問題が拡大しているのは、トァレグ族が、リビアにおいて備蓄していた武器を持ち出し、その武器が近隣国に流出している事に起因する。チュニジアにおいて、2月20日に大量のカラシニコフやPRGと呼ばれるロケット弾が押収されたが、これはリビアから密輸されたものである。カダフィーはソ連と蜜月時代を築いており、リビアの武器は旧ソ連製のものが多い。
少し話題はそれるが、本日、偶々、帰宅時に会った同僚と意気投合し、日本食屋で、ノンアルコールビールを飲みながら共に食事をした。彼とは、仕事上の付き合いだけであったが、初めて、個人的な話もした。その完璧なブリティシュ英語を操る同僚の生い立ちを聞いて驚いた。彼はリビア人であるという。1969年にカダフィーがクーデターを起こし、国王イドリース1世を追放した際には、体制側の彼の父親は、2年間投獄させられたという。彼が幼少の時の出来事だそうだ。気品があって、ノーブルな雰囲気が漂う同僚である。私の先輩がリビア政府のアドバイザーを務めた話をすると、同僚は2男のセイフ・カダフィーとも会ったことがあると話していた。
最近つくづく思うことは、人と人とは“縁”で結ばれているということである。先輩の様な人生のロールモデルがいなければ、私はアフリカに移住するという決断が出来なかったかもしれない。また、チュニジアに来て以来、様々な人脈が国境を越えて広がり、更にそれが目に見えないところで結びついているような気がしてならない。実はその縁によって人生が導かれているような気さえする。人は縁で生きているのではなく、縁で生かされているということであろうか。
しかし、縁が国境を超えて広がることは喜ばしいが、リビアの武器については国境を越えて拡大しないことを切に祈っている。
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