2013年5月31日金曜日

安倍政権の海外留学支援について

安倍政権は日本から海外に留学する学生向けの奨学金制度を拡充する方針を打ち出したという。その奨学金は秋学生に限定しているとはいえ、希望者全員を支給対象としており、大胆な支援策であるのは間違いない。

昨今、日本の若者が内向きになっていると言われている中で、政府が留学生の後押しをすることは良いことであろう。また、国際基準に合わせるべく、秋入学の導入を加速するということにも賛成である。

GDPの2倍もの国家の債務がある中で、留学制度にまで政府が支援する必要があるかという議論は当然にあるだろう。しかし、今後、日本が海外の市場に重きを置いているのであれば、留学制度を支援することは必要ではなかろうか。意味のない公共事業を行うよりは投資効果は覿面である。

それでは、この海外留学とはどのような形態になるのであろうか。少し考えてみたい。

まず、この奨学金の支援制度はワシントンで下村文部科学大臣が発表したことから、その受入れ先を米国に想定しているようである。この制度は、3月の高校卒業から大学入学9月までの半年間(ギャップターム)にて海外留学を希望する学生を対象としているという。

恐らく、対象の学生達は、まず3月から大学付属の語学学校に通い、6月に入って語学学校を継続するか、又はサマーコースの選択授業を受ける制度ではなかろうか。通常、アメリカの大学は3月頃は学部の受け入れは行わないが、6月からはサマーコースと言われる選択授業のコースを受講する事ができる。高校を卒業していれば、他大学や海外から訪問して6月から9月までの期間に選択授業を受ける事が可能である。

実際に、私もカリフォルニアの大学院の入学前は、同じキャンパスにある大学のサマーコースを受講することが出来た。私は簿記、統計学、英作文の授業を受けたが、他にも語学やリベラルアーツの授業もあり、その選択授業の数は豊富であった。当時、既に30代後半になっていたが、米国の20歳前後の大学生と机を並べて勉強した思い出がある。若作りしていたせいもあってか、誰も私のことをを気に留める学生はいなかった。

上述したように、私はこの政府の方針に基本的には賛成である。しかし、懸念すべきことは、この制度は勉学の意義とは別に、充分な国際交流が可能であろうか。まず期間が半年と短い。恐らく学生は大学のキャンパスの寮に入ることになると思われるが、日本人が大挙して押し寄せたりしたら、アメリカの学生と中々交友することが出来ないだろう。なるべく、日本人が居ないような片田舎に学生を分散するべきであると思う。また、留学先を米国に偏重しているが、途上国が世界の政治・経済において存在力を増している中で、正しい選択肢と言えるのか疑問に感じる。

それでは、仮に私がもし文部科学大臣であれば、留学支援に関して、下記のように提案したいと思う。

まず、留学期間を1年以上とし、高校時代や、大学の2年生や3年生時に、途上国向けの留学支援を行う。英語圏であれば、フィリピン、インド、パキスタン、マレーシア、ケニヤ、タンザニア、ウガンダあたりが対象国になるのではなかろうか。ギャップタームの米国留学の費用が数十万円程度とのことなので、途上国であれば1年間以上の留学支援が可能となる。海外で取得した単位を日本の高校や大学で認める制度も必要であろう。

次に、上述した制度を拡大する為に、現在、日本政府が国費外国人留学生として受け入れているあらゆる派遣国に対して、日本人の学生が無償で学べる交換留学制度を構築する。その派遣先はアジアのみならず、中東、中南米、アフリカを対象とする。英語圏のみならず、フランス語、スペイン語、ポルトガル語、アラブ語、中国語、韓国語、ベトナム語圏等の受け入れ先を確保する目的である。語学のレベルにより、学部入学が難しければ大学付属の語学学校でもいいし、高校でもかまわない。現在、6000人の外国人学生が日本で学んでいるので、同等数の日本人の学生が途上国に行ければよいと思う。渡航費や生活費は個人負担でもかまわないのではないか。通常、生活費は日本よりもはるかに安いので、日本に住むよりも安上がりである。

これからの時代は異文化の人間とのコミュニケーション能力が極めて大切になる。国際感覚とは、外国人と同じ釜の飯を食べたというような経験をしないかぎりなかなか身につかない。時には屈辱的な思いをすることもあるであろう。若いころにそのような経験をしながら、異なる国の人々と時間を共有することが極めて大切である。これらの経験が大人になって必ず役立つ。

自らの経験でいうと、15歳の時に東京からオーストラリアのビクトリア州の田舎に1年間留学した時は、天地がひっくり返るほどのカルチャーチョックを感じた。ホストファミリーが営む牧場で、学校登校前の早朝に牛乳を採取した経験は忘れられない。現地の高校でも唯一有色人種であった。最初の半年間は、日本人に一人も会わなかったと記憶している。これらの経験が現在の海外生活を支えていると思っている。

今後の日本は先進国のみならず、途上国の人々に対して、物やサービスを提供し、飯を食っていかなければいけない。日本人が現地の会社を経営しなければいけない場面も増えてくるであろう。日本の成長は途上国の人々との付き合いが鍵になる。日本は未だに米国に偏重している傾向があるが、日本の学生があらゆる国に羽ばたいて有意義なネットワークを構築してもらえればと切に願っている。

【参考資料】
http://www.nikkei.com/article/DGXNASDG0200Z_S3A500C1CR0000/

2013年5月30日木曜日

フランス人の多様性 

90年代の前半であろうか。かつてクレッソンというフランスの女性首相が、日本人の事を『黄色いアリ』と差別的な発言したことを記憶している。また、かつての上司がフランスに社費留学した時の話を聞いたことがあり、『当時(1970年代後半)のフランス人が日本人に抱くイメージは“猿”と同様だった。』という言葉が強く印象に残っている。当時のフランス人の有色人種に対する偏見は根強いものがあったのだろう。

私はこれらのネガティブのイメージのせいか、今まで積極的にフランスに関わろうとして来なかった。正直、あまり住みたくない国であると思い込んでいたのも事実である。従い、若い頃に旅行や出張を通じて何回かフランスに行ったことがあるが、フランス文化に傾倒したこともなければ、フランスに憧れたこともない。フランス語に本格的に触れたのもチュニジアに来てから初めてであるし、フランス人の友人を持ったのもほぼ初めてに等しい。

先週、同僚のフランス人の友人が結婚し、結婚式とその前夜祭にて、彼の家族や多くの友達と共に祝福をあげた。彼はイベリア半島出身の親を持つフランス人であり、新婦はチュニジア人であるが、フランス生活が長かった為、二人の学生時代やかつての同僚達がフランスから50人程駆けつけ、賑やかな集まりとなった。

その集まりにおいて、多くのフランス人と話をする機会があったが、正直、私のフランス人に対するかつてのイメージは一掃された。上述した通り、私のフランス人に対するイメージは気位が高く、外国人に閉鎖的であるというものであったが、最近の若い世代(20代や30代)はそうではなさそうである。話しをした殆どのフランス人はフレンドリーで、国際的であり、日本に対して多大な好奇心を持っているという印象を受けた。

そのフランス人達による日本に関する話題も、セーラームーンやドラゴンボールを始めとする漫画や、懐石料理の食文化、北野武の映画や、秋葉原におけるコスプレ並びにメイドカフェ文化と多岐にわたった。日本の金融機関の欧州現法に勤めているものもいた。また、漫画等を通じて、片言の日本語を知っている人が多く、『おたく』という言葉まで知っているフランス人がいたほどである。彼は日本の漫画とゲームが大好きな自称『プチ・おたく』であるという。

どうやら、フランスという国は、この30年程の間に、かつての植民地化による後遺症とグローバリゼーションの流れの中で、その伝統的な価値観が大きく変化していったようである。驚いたのは結婚式に来ていたフランス人の顔ぶれが、フランス人の先祖を持つもののみならず、サブサハラのアフリカ系や、北アフリカ系、東欧系等、様々な顔ぶれであったことである。また、多くのカップルが異なる人種間のカップルが多かったのが印象的であった。白人(コケ―ジョン)とネグロイドのカップルが多かったのには驚いた。

フランス人のエスタブリッシュメントも国際化しているようだ。前サルコジ大統領はハンガリー系の移民の子供であるし、内部大臣のマヌエル・ヴァルスはスペインの出身であり、20歳の時にフランスの国籍を取得したという。フランスのサッカーチームを見ても実に顔ぶれが豊かである。アルジェリア系のジダンや、アフリカ系のアンリ等の例を見ても、如何にフランス人の人種構成が多様化しているかがわかる。

フランスという国はかつての自国に対する圧倒的な誇りを持つ国から、様々な人種が交わり、他国の文化を学ぼうとしている国際的な国に変貌を遂げつつあることがわかった。今後、これらの動きは更に加速するであろう。様々なカップルを拝見して、フランスとアフリカが融合する日もそんなに遠くないと真剣に思ったほどである。

2013年5月19日日曜日

電力自由化の“デジャブ”

本日、久しぶりに日本のニュースをインターネットで見ていたら、電力の完全自由化が行われる見込みであることを知った。その内容によると、政府は5年後から7年後を目途に電力の小売りの完全自由化と発送電の分離を目指すという。

私は一瞬目を疑った。私にとってこの電力自由化の動きは“DejaVu(デジャブ)”である。既に10年以上前のことであるが、当時、『黒船』と呼ばれた米国の某エネルギー会社の日本の現地法人に勤めており、電力事業に参入しようとした経緯があるからである。しかし、自由化が頓挫し、道半ばでその目的を達成できなかったという思いがある。今回の方針は時代が遡ったような内容であるが、果たして政府は本気なのであろうか。ここで少し当時の事を振り返ってみたいと思う。

2000年より、2000kW規模以上の大口需要家に対する小売りが規制緩和され、当時は将来の完全自由化に向けて期待が高まっていた。その米国エネルギー会社は日本の電力市場にて流動性が生まれることを予測しており、既存の大口需要者に対して、年間電力料金の10%分を現金で支払うことを引き換えに、将来において電力を供給する権利を得るという商品を展開していた。少し専門的な用語であるが、デリバティブの『プットオプション』という考え方である。当時、私は同社のトレーデイング部門に所属しており、その商品を販売していた。しかし、その商品のコンセプトがあまりにも斬新すぎて需要家からなかなか理解が得られなかった記憶がある。最終的には、その商品のメリットを理解し、購入してくれた顧客も数社ほど存在した。

一方で、同社の発電部門においては、将来の電力の流動性を高める為に、青森や四国に大型の発電所も建設するべく計画が行われていた。当時、これらの動向は画期的であり、連日、日経新聞の一面を賑わせていた。また、当時は、その日本現法の幹部と東京電力の間で定期的に秘密裡の打ち合わせが行われていた。福島第一原発事故の時に指揮を執っていた某会長(当時は副社長)もその打ち合わせに参加していたことを覚えている。当時の電力会社は政府からの圧力に相当な危機感を持っていたのであろう。

しかし、2001年の夏頃になり、その米エネルギー会社において、日本の電力自由化に対して懐疑的な意見が増してきた。電力会社はその巨大な経営基盤を背景として、小売で競争しようとする会社に価格で対抗しており、市場競争が促進されていなかった。しかし、その自由化が進まない根本的な原因は、日本の電力の自由化の方法に構造的な問題があったと記憶している。

2001年5月にその米エネルギー会社が発表した『日本電力市場の改革への提案』というレポートがある。本日、インターネットで、その提案書を10数年ぶりに読んでみたが、その構造的な問題を指摘している。その主な問題は、電力会社による垂直統合型の組織形態と、地域独占体制、そして家庭向けも含む小口需要家市場を保護している点である。結局、懸念していた通り、電力会社による強い抵抗によって、発送電の垂直統合の組織は解体されなかった。また、電力会社にとって利益の源泉である家庭向けの規制緩和は行われず、電力自由化は中途半端な形でしか進まなかった。

今回の政府による電力の小売りの完全自由化、発送電の分離を目指すという方針は、10年以上前の失敗から学び、その構造に対して、本格的なメスを入れようとしたものである。しかし、何故、今になって自由化を推進しようとしているのであろうか。

まず、政府が電力の完全自由化を推進する背景は福島第一原発の事故にあることは間違いない。東京電力に対する激しい世論の批判の中で、『地域独占』と、『発送電一貫体制』の見直しに動いたのが大きなきっかけであり、国有化したことによって政府主導によって自由化が行える環境が整ったということであろう。

しかし、あくまで推測であるが、本当の理由はTPPによる外圧をきっかけとしているのではなかろうか。上述した、米エネルギー会社が関与していた時代からもそうであるが、日本はアメリカから、日米構造会議等で、様々な分野の自由化を迫られていた。TPPは域内の国において、同じルールが適用されるという仕組みなので、今回もTPPの交渉をトリガーとして、米国、又は、その外圧を利用して利益を享受しようとしている日本企業、そしてそれを後押しする政治家が、経済産業省を動かしたに違いない。

その米エネルギー会社は、ブッシュファミリーとも近いと言われていたが、実は、当時は世間で言われているほど、日本に対してアメリカによる政治的な外圧を利用していなかった。その理由を当時の米国人の幹部に聞いたことがある。その幹部によると、『日本に対して表だって圧力をかけることは、日米の良好な関係保持に寄与しないという米国政府の意向による』ということであった。その説明の際に、当時の橋本龍太郎通産相とUSTR(米通商代表部)のミッキー・カンター代表の間で激しいやり取りをしていたことを連想したことを覚えている。むしろ、外圧と騒いていたのは、日本のマスコミであり、それを利用していた日本の企業であったという印象を持っている。

その後、その米エネルギー会社は日本の電力事業を発電部門のみに残し、トレーデイング部門の活動は石油・ガス等のデリバティブの販売事業へと大きくシフトした。そして、その米エネルギー会社は不正会計疑惑をきっかけとして倒産し、私も4カ月の失業を経験した。当時はまだ30歳を超えたばかりの若かりし頃であったが、あれから10年以上の月日が経った。その年は米国テロ多発事件が起きた年である。

ご参考までに、私が住んでいるアフリカにおいては、最近の電力市場は、IPP(独立系発電事業者)の拡大のみならず、国によっては民営化や、(特に代替エネルギーにおいては)、電力市場の部分自由化の動きが促進している。私はどちらかと言うと、競争を導入する電力自由化に賛成であるが、今となっては電力自由化の強烈な崇拝者でもない。自由化の進め方を間違えると、電力価格が高騰したり、電力不足が起こる可能性もあるからである。是非、日本のレギュレーターには、市場を注意深く観察しながら、問題を一つづつ解決しつつ、自由化を進めて欲しいと願っている。

【参考資料】
http://www.iser.osaka-u.ac.jp/~saijo/warming/00/01/enron1.pdf
http://www.itmedia.co.jp/smartjapan/articles/1302/12/news023.html
http://www.nhk.or.jp/kaisetsu-blog/400/128330.html
http://eneco.jaero.or.jp/important/japan/japan05.html

2013年5月18日土曜日

ポルトガル人の生き方とは

最近ポルトガルに興味がある。理由は大叔父がブラジル日系一世であったということもあり、その宗主国であることもその理由の一つだが、最大の理由は、同僚のポルトガル人達に“いい奴”が多く、彼らと馬が合うからである。

同僚にポルトガル人達の、その人となりや仕事ぶりを観察しているが、その性格はフレンドリーであるが、控えめで勤勉である。また、人に対して気配りをする繊細な性格は日本人にそっくりであり、親近感を持っている。他の人種に対する差別も極めて少ないという印象である。

先日、ポルトガル人の同僚の誕生日パーティーに行ってきた。チュニジアにいるポルトガル人が10人程集まったが、普段は、その控えめな性格が、酔うと陽気になったり、はしゃいだりする姿を見てるうちに、日本の学生時代の同窓会か、かつての会社の飲み会と錯覚を覚えるほど、その仕草が日本人と似ていると思った。

また、ポルトガル人の背丈や顔も日本人と似ている。一般的な日本人よりも目が大きく、鼻が高く、濃い顔をしているが、黒髪であり、九州や東北あたりにもいそうな顔の奴もいる。そのパーティーで食事をしている時に、隣に座っていたポルトガル人は、私の学生時代の友人にそっくりであった。他にも西郷隆盛の親戚かと思うような奴もいた。

ポルトガル人の何人かと食事をしながら歴史の話をした。彼らの説明によると、ポルトガルは、かつては七つの海を制した言われるほど、繁栄していた時代があったという。南米ではブラジル、アフリカではモザンビーク、アンゴラ、ケーブ・ベルデ、サントメ・プリンシペ、アジアでは、マカオ、東ティモールがかつてのポルトガルの植民地であった。普段は控えめなポルトガル人であるが、かつての歴史を語らせた時はそのプライドを覗かせていた。そういえば、以前マカオに行ったときに道路の標識が全て広東語とポルトガル語であった事を思い出した。現在は繁栄著しいブラジルに職を求めて移民するポルトガル人も多いという。

私が、16世紀に日本に鉄砲(火縄銃)の技術を伝えたのも、キリスト教を伝えたのもポルトガル人である事を伝えたら、知らない人が多く驚いていた。日本語のカステラ、ビスケット、カルタ、タバコ、天ぷらも全てポルトガルからの外来語である事を伝えたら、ポルトガル人は大喜びであった。

そのパーティーにはスペイン人も何人か来ていたが、その性格はポルトガル人とは大きく異なる。あくまで私の主観であるが、スペイン人の方が多弁であるが、多少ドライであり、ポルトガル人の方が若干恥ずかしがり屋であるが、人懐っこい(ウェット)であるという印象である。

更に、かつてはハプスブルグ家が繁栄していた16世紀頃には、ポルトガルはスペインに併合されていたことを指摘したら、ポルトガル人達は露骨に嫌そうな顔をしていた。『偶々、ポルトガル王国がハプスブルグ家に併合されていた時期はあるが、スペインとポルトガルとは歴史も民族も大きく異なる』と近くにいたスペイン人を気にしながらコメントしていた。隣国との関係も微妙なところもあるようである。


さて、そのポルトガル人であるが、皆、踊りがうまい。サルサをおどらせたたら天下一品である。サルサはカリブ海の文化であり、今までコロンビア人やキューバ人に散々その華麗なる姿を見せつけられてきたが、カリブ海とは関係ないポルトガル人がここまでサルサがうまいとは知らなかった。その女性をリードする姿に、普段は控えめであるが、人生を楽しむポルトガル人の生き方を垣間見た気がした。ポルトガル人の男はプレイボーイの資質が高いようである。


かつて日本では、戦国武将の織田信長や豊臣秀吉らがポルトガル人を重宝し、『南蛮貿易』を後押しした。その後、薩摩や長州の大名が南蛮貿易で財力を増したり,カトリックに改宗したりするようになった話は有名である。ポルトガル人は、フレンドリーな笑顔と、人の心を読む洞察力をもって戦国武将をも取り込んでいったに違いない。

現在はEUの危機で憂き目を見ているポルトガルであるが、かつては、小国でありながら、七つの海を制した言われるほど繁栄していた。そのパーティーにおいて、ポルトガル人の控えめで、フレンドリーではあるが、そのしたたかさを垣間見た気がした。ポルトガルを決して侮ってはいけない。

2013年5月8日水曜日

エル・ジェム(円形闘技場)

週末にエル・ジェムに訪問した。ローマ帝国では3番目に大きい『円形闘技場』を擁する街である。かつては古代都市のシドラスという場所であり、オリーブオイルを中心に栄えた交易都市であったという。

今回はチュニスに住む、エキスパッツ(外国人駐在員)で構成している『探検グループ』と共に行動を共にした。友人に紹介されて、初めて参加したグループだが、色々な人がいて面白い。男女からなる、アメリカ人、ドイツ人、ブルガリア人、スロベニア人、チュニジア人のグループであった。年配の方が殆どであるが若者も交じっている。後になってわかったが、探検とは名ばかりで単なる旅行好きが集まるグループであった。

チュニスからルアージュ(乗合バス)で現地に向かうこと約2時間。会話のほとんどは英語だったが、多少ブロークンだろうが訛りがあろうが、皆お構いなしだ。この手のグループは何の利害関係もなくて気軽でいい。国籍も人種も年齢も男女も全く関係ない。その人がフレンドリーで親切か、又、その人が面白いかが重要な点である。道中、馬鹿話をしながらすぐに打ち解けた。

自己紹介をしたり、途中で高速のインターンで休憩をしたり、趣味の話をしているうちにエルジェムに着いた。そして、ルアージュから降りて、歩くこと数分。突然、巨大な『円形闘技場』が現れた。殆ど砂漠化して何もない街にそびえ立つ闘技場は神がかり的な存在に映る。この円形劇場は2世紀頃に建設されたというが、収容人数が3万五千人であるというのだから、横浜球場(収容人数3万人)よりも大きい。かつてのローマ帝国の建設技術のレベルの高さを見せつけられた。

そして、円形闘技場の中に入った。昨年、ローマのコロッセオに訪問したが、エルジェムの闘技場はその迫力とあまり変わらない。多少コロッセオの方が洗練している感じがするが、エルジェムの方が保存状態が良く、見ごたえがあった。19世紀も経て、現在でも利用されているのだから奇跡的である。乾燥している気候がその保存を助けたのであろう。

観客席に登り、闘技場を見下ろしたが、ここから見えるスペクタクルは壮大であったのであろう。ローマのコロッセオでもそうだが、ローマ帝国時代にはグラディエーターと呼ばれる剣闘士同士の戦いや、剣闘士と猛獣の戦いが行われ、観客を魅了したという。

円形闘技場の地下には剣闘士や猛獣を収容するスペースがあった。戦いの一方が殺される運命であるが、死闘が始まるまでの待合室である。19世紀前の剣闘士の汗や、動物の匂いが漂いそうな生々しい場所である。

この円形闘技場は、7世紀末にはアラブ軍と、現地のベルベル人の軍の間で戦いが行われたという。ベルベル人の女王のカヒナは、円形闘技場に立て籠もり、炎に身を投じて命を絶ったというのだから本当に劇的(メロドラマティック)な舞台であったようだ。

円形闘技場が見渡せる場所で、昼飯を食べながら、グループの人の話を聞いた。それぞれが、チュニジアに来た理由は様々で面白かった。ヨーロッパは所得税が高くて、チュニジアに移住して翻訳事業を行っている人、アメリカのフォーチュン100の企業に勤めたが、娘がチュニジア人と結婚したので、チュニジアに移り住み老後生活を送っている人、ヨーロッパの政府から派遣されたインターン、企業駐在員、医者、学生等、まさに“人生色々”である。国籍も人種も年齢も男女もバラバラであるが、この人たちとチュニジアでこのようにして出会えたのも何かの縁だろう。旅行に関しても、チュニジアではあそこが面白いとか、あそこは失望したとかそれぞれ意見を持っていた。エル・ジェムに関しては、初めて見る人が多く、どの人もその壮大さには驚いていた。

その後、モザイク画の美術館を訪問した。ローマ時代のモザイク画は動物や自然の風景が多い。動物も猛獣を扱うケースが多く、ローマ時代には猛獣を畏怖していた様子がわかる。これも円形闘技場の影響なのであろうか。

またキリスト教徒の絵が多いのが印象的であった。ローマ時代の当初はキリスト教は迫害されていたが、徐々にキリスト教は影響力を増す。テオドシウス帝は380年にキリスト教をローマ帝国の国教と宣言する。チュニジアにおいても、その影響を受けて、モザイク画もキリスト教徒の絵が多くなっているのがわかる。

チュニジアは遺跡の宝庫であるが、このような素晴らしい場所で、日本では中々出会えない多様な人々と共にチュニジアを探検出来たのは楽しかった。山崎豊子著の『沈まぬ太陽』の主人公の恩地元は『週末ハンター』であるが、私の場合は『週末(中年)バックパーカー』になるのであろうか。祖国から離れている寂しさはあるが、アフリカ大陸でこのような貴重な体験ができることに感謝している。

2013年5月1日水曜日

チュニジアのモザイク画(塗り替えられた歴史)

ローマの住居から見える風景
(奥が大統領官邸と地中海)
カルタゴの海沿いにある大統領官邸やアントニヌスの公共浴場より少し内陸側に登ったところに、ローマ人の住居地跡がある。その高台からの見晴らしは素晴らしく、かつてのローマ人が最高のロケーションを確保していたことがわかる。

その丘を更に少し登るとローマ劇場の遺跡があり、少し離れたところには円形闘技場の遺跡がある。かつて、ローマ人が娯楽好きであった生活が容易に想像がつく。また、住宅近くには、小規模な貯水場も確保していたことから、ローマ人は公共浴場に行くのみならず、自宅にも浴槽があり、風呂好きな民族であったようだ。


そのローマ人の住居跡であるが、嘗ては、ローマ人のみならず、異なる民族も住んでいたという。そこにはポエニ人(ベルベル人とフェニキア人の融合)、ヴァンダル人、ビザンチン人が住み、侵攻した民族が破壊と建設を繰り返して、侵略した土地の上において歴史を塗り替えていった。

現在は観光地になっているそのローマ人の住居跡であるが、本日、そこに入ると、何処からともなく現れた年配の男が話しかけていた。その男によると、その住居跡には異なる文化のモザイク画が存在し、民族によって特徴が異なるという。その男の話が興味深かったので案内をお願いした。

ローマ時代のモザイク
(ボリエールの別荘にて)
まず、その案内人が入口の奥にある洞窟に案内してくれた。薄暗い洞窟の中には、数々のモザイク画が無造作に立掛けてあった。考古学者が掘り起こしたものであるという。宝の山がそこら中に転がっているのには驚いた。

そのモザイク画は土埃を被っていたが、案内人が水をかけてくれ、そのモザイク画の様子を見ることができた。

ローマのモザイク画は幾何学的な模様であり、その模様は動物や草花等の自然を対象とする模様が多いようだ。ローマ帝国BC44よりカルタゴの再建をおこない、その支配はヴァンダル人に倒される439年まで続いた。モザイク画はその間に建設された住居の床である。

ヴァンダル人のモザイク
(卍の記号が記されている。)
次に案内人がヴァンダル人(439年~533年)のモザイク画を見せてくれた。興味深かったのは、『卍(まんじ)』の記号が記されていたことである。案内人によると『卍』の記号はインドの太陽のシンボルであるという。後で調べたが『卍』は古代のインド・ヨーロッパ語族の共通の宗教的なシンボルであったようだ。ナチスが利用した『卐(ハーケンクロイツ)』はこの『卍』の記号を逆にしたものである。ヴァンダル人とは北ヨーロッパから来た民族であり、ヴァンダル人とゲルマン民族が重なり合って見えてしまう。

ビザンチン人のモザイク
更にビザンチン人(東ローマ人)(534年~646年)のモザイク画も見せてくれた。ビザンチンのモザイク画の特徴は複雑な模様にあり、しかも左右対称の絵柄であるという。ビザンティン帝国にとってモザイクは重要な文化であり、今までのローマ人やヴァンダル人のモザイク画が更に発展した形であるのがわかる。

洞窟を出て更に進み、かつてのポエニ人の住宅の遺跡を案内してくれた。その住宅の面影は1か所しか見られないという。ローマ人は嘗てのポエニ人の街を徹底的に破壊し、その上に、新たな都市を構築したのは有名な話である。案内人によると、ポエニのモザイク画はローマのそれより約80cm下の断層に埋まっていたという。考古学者がポエニ人の住居を掘り起こした時は大発見であったに違いない。


ポエニ人の住居の跡(床のモザイク画)

写真の如く、ポエニ人のモザイク画は朱色の下地に白い斑点があるのが特徴のようだ。これは先日、ボン岬にあるケルクワンににてポエニ人の住宅を見た際にもほぼ同様の模様であった。

その後、丘を登り、草むらの中に進み、ローマ人、ビザンチン人のモザイク画が実際に土壌の上に存在する場所に連れて行ってくれた。


今後は丘を下り、ローマ人の住居を見た。そこは『ボリエールの別荘』といわれる屋敷の後であるが、列柱回廊や、中庭、床のモザイクが残っていた。モザイク画は動物や花や草、馬の絵柄が多かった。数々のローマ神の彫刻も残っていた。

購入したローマ時代の
本物?のコイン
最後に案内人が教えてくれた。土砂降りの大雨が降った後には、嘗て使われていた貨幣(コイン)が出土することがあるという。

そして、その案内人はポケットから、幾つかのコインが取り出し、私に見せてくれた。全て異なる表記や形状のコインである。手に取って観察をしてみたがどのコインもくすんだ色をしており、殆どは形状がデフォルメしていたり、文字が読めなかったりする。しばらく、眺めてみたが、どう見ても本物にしか見えない。これらは案内人が大雨の後に見つけたコインであり、私に対して特別に売りたいという。

価格交渉の上、そのコインの一つを買った。くすんで見にくいが、嘗てのローマ帝国の皇帝と、その裏にはその皇帝が馬の乗った姿が映し出している。本物であれば、ローマ帝国時代の1600年前から2000年前のコインということになる。

コインを買い、子供の頃に玩具を買った気持ちになった。嘗てのローマ帝国の銅のコインである。ロマンを感じるには十分すぎるほど希少な玩具ではなかろうか。

【参考資料】
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%8D
http://en.wikipedia.org/wiki/Mosaic
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%BC%E3%82%B1%E3%83%B3%E3%82%AF%E3%83%AD%E3%82%A4%E3%83%84