2013年11月4日月曜日

坂の上の雲~旅順攻囲戦~

『坂の上の雲』とは、明治の時代に封建の世から目覚めたばかりの日本が、登って行けばやがてはそこに手が届くと思い登って行った近代国家や列強を例えたものという。

日本特有の精神と文化が19世紀末の西洋文化に対しどのような反応を示したかを正面から問いかけた作品であると言われている。以前、司馬遼太郎の小説は読んでいたが、夏休みの間に、収録したテレビ番組を日本を想いながら海外で見ることによって異なる感慨を覚えた。

主人公は松山出身の秋山好古、秋山真之兄弟と正岡子規であり、番組では3人の生き方と、日本の未来に向かっていく希望に満ちた時代背景が描かれている。

しかし、日本が近代国家になる道のりは険しかったようだ。清国とロシアという隣国の脅威に晒され、国家一丸となってその脅威から防衛する必要があった。そのような意味で、『坂の上の雲』の“坂”の象徴とは、日露戦争時の『旅順攻囲戦』であるかと思っている。そこでは陸軍の第3軍が1万6千人の死者と、4万4千の戦傷者(延べ数)を出した末に、ロシア陸軍に勝利している。この203高地も含むこの旅順要塞の攻略がなければ、旅順港のロシア艦隊とバルチック艦隊の合流を許し、制海権はロシアに奪われ、日露戦争はロシアの勝利に終わっていたであろう。

歴史に“もし”という言葉はないが、旅順の勝利がなければ、日本はロシアの影響下に置かれ、第二次世界大戦後は東欧のように共産化されていたかもしれない。『旅順攻囲戦』が日本の近代史の大きな岐路であったのは間違いない。

さて、この陸軍の第3軍の戦術に関してであるが、多くの死者を出したことで数々の失敗があったと非難されている。また、司馬遼太郎自身も否定的にとらえているようだ。但し、その評価については様々な議論が行われているようだ。

その主な非難は早期に203高地を攻め、そこからロシア海軍の旅順艦隊を砲撃しさえすれば、要塞全体を陥落させずとも旅順攻囲戦の作戦目的を達成することができ、兵力の損耗も少なくてすんだはずだという批判である。

その反対論としては、要塞の攻略に必要なのは、どの地点を占領するかではなく、どの地点で効率よく敵軍を消耗させることができるかにあるから、203高地を主攻しなかったことをもって第3軍をを批判することはできないという考え方である。実際、203高地を占領した後、旅順要塞が陥落するまで約1か月を要しているという。仮に、当初から203高地の攻略を第1目標に置いたとしても、被害の拡大は避けられれず、反撃射撃や予備兵力による逆襲を考慮すべきであるという。

非難の情報源は1909年に陸大の谷教官が書いた「谷戦史」が、太平洋戦争後の昭和40年代に「機密日露戦史」という題にて出版されたものといわれている。司馬遼太郎はこの本を参考にして『坂の上の雲』の旅順攻囲戦を描いた。しかし、この「機密日露戦史」は、実際の当事者である3軍参謀部(伊地知幸介、大庭二郎、白井二郎)による記録がなく、一方的見地に偏った資料であり、誤りも多いという人もいるようだ。

事実としては、近代の日本は攻城戦の経験が少かったようだ。そして、当時、乃木希典大将は、何年も現役を離れていて、戦争の直前に復職したばかりだった。又、参謀長の伊地知幸介は、軍司令を補佐することも、若い参謀たちを掌握することもできなかったようだ。実質的には、参謀副長の大庭二郎がその任務に当たったという。

先日、日本から年老いた母が訪問した際に『坂の上の雲』の話をした。母の家系は代々陸軍の士官が多いが、大庭二郎は私の高祖伯叔父にあたるという。その関係を理解するのに時間がかかったがつまりは遠戚のようだ。大庭は日露戦争の際に、当事者として『大庭二郎中佐日記』という記録を残しているようである。歴史の真実とは見る者によって異なるようであるが、日本に帰る際にはその文献を探して読んでみたいと思う。

【参考資料】
坂の上の雲 (旅順総攻撃、203高地、日本海海戦)
http://www.weblio.jp/wkpja/content/%E4%B9%83%E6%9C%A8%E5%B8%8C%E5%85%B8_%E6%97%85%E9%A0%86%E6%94%BB%E5%9B%B2%E6%88%A6%E3%81%AB%E3%81%8A%E3%81%91%E3%82%8B%E4%B9%83%E6%9C%A8%E3%81%AE%E8%A9%95%E4%BE%A1
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9D%82%E3%81%AE%E4%B8%8A%E3%81%AE%E9%9B%B2
http://d.hatena.ne.jp/jjtaro_maru/20120105/1325764507
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%BA%AD%E4%BA%8C%E9%83%8E

2013年11月3日日曜日

帰国子女の親として


帰国子女とは、親の赴任等に伴い、海外生活を幼少期に経験した子供達である。訪問した国における学校体験にもよるが、早い時期から外国語や異文化を経験しているので、一般的には『外国語』が優れていたり、『国際感覚』を擁しているといわれている。

一方で日本で教育を受けていない時期があるので、日本語の読み書きに問題があったり、日本の常識を兼ね備えていないことがあるのも事実であろう。

帰国子女の親の立場としては、この利点を伸ばしてあげることと、弱点を克服する為に子供に何ができるか悩むのが共通の思いではなかろうか。海外体験は素晴らしい機会になるかもしれないし、場合によっては日本語も外国語も中途半端になる可能性もあり、親にとっては気が気ではない。また、帰国時にはいじめの対象にならないか等、学業以外でも心配することもある。

私の場合は、子供が帰国子女であり、この問題は他人ごとではすませられない。また私自身は帰国子女ではないが10代の時に留学経験があり、海外で働きノンネーティブとしての英語の壁を常に感じていることもあり、大変重要なテーマである。

かつて、高校の一時期、アメリカの大学を目指した時期があり、SATを受験したことがあった。そのテストは難しく、箸にも棒にもかからずがっくりした思い出がある。受験会場の国際基督教大学(ICU)において、試験後、同世代の帰国子女達が『It was not so bad』と流暢な英語で話しているのを聞いて2重にショックであった。やはり、1年間留学しただけでは、何年も海外に住んでいた帰国子女には英語の面で太刀打ちはできないと強く感じた。帰国子女が羨ましいと思ったほどである。

しかし、帰国子女といってもその海外体験により、外国語の習得度に大きな個人差がある。また、帰国後の教育方法によって、その後の外国語の発展に大きな影響を及ぼす。かつては、小・中学校で帰国した子女達にとって英語の力を伸ばすような塾や学校は少なかった。しかし、現在は、帰国子女用の英語専門塾や特別英語クラスを保有する中・高も現れており、そのレベルは高まっている。

実際に子供が小学校高学年の時に、帰国子女用の塾に通わせたが、その集中度はすざまじかった。その塾は帰国子女用の中・高受験を目的としているが、週に2~3回の授業で撤退的に英語の読み書きを習得させる。現在、子供が再び海外の高校で対応できているのは、かつての米国の初等教育の経験とともに、その塾で鍛えられたことが大きいと思っている。

現在、日本においてはTOEIC900点や、TOEFLが600点があれば、英語が高いレベルに達しているとされている。このレベルに達するのは大変な努力が必要なことは重々承知している。しかし、これらの点数(特にTOEFL)はあくまで米国の高等教育を受ける為の目安であり、残念ながら、これらの点数をとってもネーティブとの英語力の差は歴然である。

個人差はあるが、日本で教育を受けた人に比べ、帰国子女はこれらのレベルに早く達しやすい。しかし、それ以上の知識や専門性は、本を読んだり、勉強をして向上するしかない。また、母国語が深い思考を行うレベルに達していないと、次の段階で苦労することになり、母国語の教育は極めて大切である。 

親に出来ることは、与えられた環境にて、子供にベストな機会を与えてあげることであろうか。そして、子供の努力に対して常に注目し、愛情を注ぐことが最も大切であると思う。

子供は親の英語の発音がおかしいことを小さい頃から認識しているし、語彙もネーティブと比べて少ないことも、言い回しも豊富ではないことにも気がついている。それでも、英語を使って働いてる親の姿を見て、自らの将来の為に役立ててもらえればと思っている。帰国子女は日本の宝である。親のレベルを遥かに超えて、世界に大きく羽ばたいて欲しい。

2013年11月2日土曜日

ベルベル人による戦いとは

ベルベル人という言葉を初めて聞いたのは高校生の時であろうか。イベリア半島においては、1492年のグラナダ陥落に至るまで、イスラム教徒による支配が何世紀にも及んだが、その征服した主な民族がベルベル人だと教わった記憶がある。

当時、『漫画で覚える世界史』と呼ばれる本(漫画)があり、ベルベル人がイベリア半島に攻め入っているシーンを覚えている。記憶に間違えなければ、そのベルベル人は褐色であり、サブサハラのアフリカ人の特徴をもって描かれていた。その認識が誤りであることを知ったのは、25年以上も経った最近の事である。一般化することは難しいがベルベル人はコーカソイド系であり、サブサハラのアフリカ人とはその特徴が大きく異なる。

一体ベルベル人とはどのような民族なのか。その歴史は古く、かつては紀元前から北アフリカに存在していた。現在、ベルベル人はモロッコからエジプト、そして、マリやニジェールに分布しており、今日に至るまでその文化や言葉を継承している。今日、北アフリカにおいては、2500万から3500万人がその言語を話すといわれており、民族的にはそれよりもはるかに多い人口が存在するようだ。

しかし、その歴史は必ずしも日に当たるものばかりではなかったようだ。ベルベル人は歴史的にローマ帝国、ヴァンダル王国、東ローマ帝国、アラブ、フランス等の為政者によって征服され、7世紀以降は、イスラム教化が進み、その間、地域によっては他民族との混血が進んだ。11世紀以降には主権を取り戻した時期もあったが、時には為政者により傭兵として利用され、そしてその文化や言語は社会の周辺に位置づけられていった。

一方で、その文化や言語を再認識する動きが進んでいる。アルジェリアにおいては2002年4月より、モロッコにおいては2011年7月より、ベルベル語(Amazigh語)が公用語として認められている。しかし、先週のJeune Afriqueの記事によると、モロッコにおいては、15%の生徒しかベルベル語の教育を享受できないという現状であるという。更に、子供の出生時にベルベル人の固有の名前が役所で認められず、親が裁判を起こす例も見られるようである。

そのアイデンティティーを追い求める運動は南部でも行われているという。アルジェリアの南部の国境付近やマリ、ニジェールにおいて、ベルベル人は、各国においてその地位を確立されていない。MNLA(アザワド解放民族運動)に代表されるように、ベルベル人(トゥアレグ族)が武器を手にして戦っているのは、自らの地位の確立と平和の獲得が目的であるという。各国の歴史や背景が違うため、形態こそ異なるものの、ベルベル人の戦いは続いている。

私の友人にはベルベル系のアルジェリア人と、ベルベル系とアラブ系のハーフのモロッコ人がいる。その二人、特にアルジェリア人の友人はベルベル人であることに強い誇りを感じているようだ。そのアルジェリア人はベルベル語が母国語であり、アラビア語は小学校から覚えたという。二人曰く、ベルベル人とアラビア人は文化も人種的にも全く異なり、アルジェリアとモロッコにおいては、アラブ系とベルベル系を見分けることも可能であるという。民族の融合が進んだ日本では考えられないが、縄文系と弥生系を見分けることができるような感覚なのであろうか。

現在、北アフリカにおいては、2011年のアラブの春以降、政治的混乱に伴う不安定な状況が続いている。有史以前から生き抜いてきたベルベル人は、これらの混乱も超えて、自らのアイデンティティー求めながら生きていくのであろうか。

【参考資料】
http://www.jeuneafrique.com/Articles/Dossier/JA2753p024.xml0/niger-mali-islam-maghrebafrique-du-nord-l-internationale-berbere.html
http://en.wikipedia.org/wiki/National_Movement_for_the_Liberation_of_Azawad
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%99%E3%83%AB%E3%83%99%E3%83%AB%E4%BA%BA
http://en.wikipedia.org/wiki/History_of_medieval_Tunisia

2013年10月26日土曜日

パブロ・ピカソ(アフリカと日本との関係)

先週末のパリ滞在中に『ピカソ美術館』に訪問したが閉館していた。現在、改装中であり、来年の夏頃に再開するという。楽しみにしていたピカソの絵を見ることができず残念であった。

パブロ・ピカソ(1881~1973)は誰もが知るスペインの画家であるが、パリで人生の大部分を過ごし、そしてパリで人生を終えた芸術家である。ピカソ美術館は、ピカソの遺族が相続税として物納した作品が多く、その収蔵数は約5000点にも上る。作品は、青の時代、ばら色の時代、キュビスム、新古典主義、シュルレアリスムと年代順に展示されており、ピカソの画風の変化をたどることができる。

私は芸術センスのかけらも持ち合わせておらず、自らが真面目に描いた絵がピカソに似ているといわれることが理由ではないが、10代の頃、バルセロナにあるゲルニカを見て感動したこともあり、ピカソに興味を持った。その数年後に今回入館できなかったピカソ美術館にも訪問したが、その際には、ピカソが若い頃に描いた写実的な絵画を見て、その誠実な絵のスタイルに驚いたことを覚えている。美術館では、ピカソの絵画が時代と共にデフォルメしていき、最終的に独自のスタイルに辿り着く経緯が大変興味深かった。

かつて、ピカソ美術館に訪問する前は、ピカソは狂人であるが故に、そのような独自の世界を描くのであろうと思っていたが、美術館に訪問した際にはその考えを改めた。ピカソの絵画とは、様々な文化を取り入れて、徐々に本来の写実的な絵から変貌していったという印象をもった。ピカソは天才ではあるが、持って生まれた狂人ではなさそうである。

アヴィニョンの娘たち
Les Demoiselles d'Avignon
(1907)
その影響された文化とは紛れもなくアフリカ文化であり、そして日本文化である。ピカソ美術館に訪問した際は、20年以上も前のことなので、ほとんどの絵の内容は忘れたが、ピカソの絵の何枚かは明らかに日本の浮世絵の影響があると思ったことをはっきりと覚えている。

今回、その変貌していくピカソの一連の絵をもう一度この眼で見て、海外の文化からどのような影響を受けたか観察したいと思っていたが、その希望が叶わなかった。

従い、その若かりし時の好奇心を呼び起こす為にも、その疑問点についてインターネットで調べて見た。前回、ピカソ美術館に訪問した頃はインターネットはなかったが、現在、美術館に行かなくてもかなりの情報を入手できる。時代が大きく変わったことを認識した。

調べたところ、やはり、ピカソは1906年から1909年の間はアフリカ芸術に強い影響を受けていたようだ。当時のフランスは、アフリカの植民地政策の影響もあり、多くのアフリカの美術がフランスに運ばれたという。ピカソの絵である『Les Demoiselles d'Avignon』の右端の二人の絵はアフリカの影響を受けたと言われている。

一方で、ピカソが日本の絵画から受けた影響について、喧々諤々議論がされているようである。一説によると、フランスで活躍したアメリカ人女流文学者ガートルード・スタインが日本の絵をピカソに見せた際には、『日本の絵は好きではないね。』と語ったようだ。しかし、ファイナンシャルタイムズの記事で指摘しているように、ピカソの絵は本人の虚勢とは裏腹に、日本の絵画から大きく影響を受けているようだ。それはピカソの当初の作品に少し見られ、最後の10年間の官能的な絵に大きく影響していたようである。ピカソの『Raphael and La Fornarina』礒田湖龍斎の春画が影響したと言われている。

ピカソが海外の手法を取り入れて、西洋絵画の伝統を打ち破ったのは間違いない。アフリカと日本の芸術がそれに貢献していた意義は大きいのではなかろうか。

【参考資料】
http://www.musee-picasso.fr/homes/home_id23982_u1l2.htm
http://www.ft.com/intl/cms/s/0/3e6adb38-f4cd-11de-9cba-00144feab49a.html
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%83%96%E3%83%AD%E3%83%BB%E3%83%94%E3%82%AB%E3%82%BD
http://news.mynavi.jp/news/2013/02/04/166/
http://www.musee-picasso.fr/homes/home_id23982_u1l2.htm

2013年10月21日月曜日

パリの思い出(日航と弁慶)

セーヌ川の夜景が一望できるレストラン『弁慶』。ここの鉄板焼きは格別である。料理、サービス共全ての面で細かい配慮が行き届いている。シェフは全て日本人であり、ウェイトレスやウェイターも多くの日本人が従事している。週末ということもあり、リラックスしたフランス人の多くの家族やカップルが集まっていた。

鉄板焼きはブランデーを使って、炎を高く上げたりはするものの、アメリカのBenihanaのような、包丁で鉄板を奏でるようなエンターテイメントの要素は少ない。落ち着いている雰囲気であり、正真正銘の日本の空間がそこにある。

チュニジアから来たお上りさんの私にとってセーヌ川の夜景は眩しい。しかし、年老いた両親と共に海外でこのように食事をする機会は貴重である。1週間ほど、チュニジアに滞在した両親と、日本のビールと鉄板焼きを堪能しながら、次の日の別れを惜しんだ。

実は、この弁慶には10年以上も前に妻と幼少の娘と訪問したことがある。パリ旅行滞在中のせめて一回は高級なレストランに行こうと決めており、フランス料理でなく弁慶を選んだ。和食がないと生きていけない私の我がままを聞いてもらったことになる。パリに出張していた義理の姉も参加した賑やかな思い出である。

現在、この弁慶はノボテルホテル内にあるが、かつては日航ホテルにあった。料理人によると、2002年に日航がノボテルにこのホテルを売却したという。この頃は日航の経営が傾き、ホテル等のノンコアビジネスの資産を売却していた。パリの日航ホテルは日航のスチュワーデスの常宿となっていた華やかな場所でもあった。

このような思いでもあり、私にとっては弁慶とかつての日航が重なって見える。おもてなしのサービスをするという共通の場所でもある。

振り返れば、かつての日航のサービスは他社と比較しても格別であった。海外出張後にJAL便に乗ったときのほっとした気持ちが今でも忘れられない。JALのグローバル会員になるために必死でマイレージを集めていたのが懐かしい。

現在、日本航空は再上場し、再び成長するべく目論んでいるようである。しかし、LCC等との競争もあり、益々のコストの削減が必須となるだろう。人件費のみならず、エアバスに調達先を分散化したのもその一環と思われる。

パリ、弁慶、そして日本航空と懐かしい思い出である。本日は、両親と共に再び、思い出の場所に来れたことに感謝している。

2013年10月20日日曜日

フランスとチュニジアにおけるシナゴーグについて

花の都、パリ。そこはかつてのヨーロッパ人よる都市から変貌し、様々な人種が集まる坩堝となっている。この兆候は過去20年間、パリに来る度に加速しているような印象を受ける。現在、街のあらゆる所でアラブ人、アフリカ人、そしてアジア人が働いている姿が見られる。

フランスの人口は約6500万人であるが、アラブ系の人口は600万人から700万人といわれている。これらのアラブ系住民の大半は、かつての植民地や保護地であったマグレブ諸国(アルジェリア、モロッコ、チュニジア)より、1970年以降に急増した移民や移民の子孫である。そのほとんどがイスラム教徒ということを鑑みれば、フランス人の10%以上がムスリムということになる。移民又は移民を親に持つ人口は全体の20%にも昇るという。

そしてフランスはユダヤ人との歴史も深い。1787年に起こったフランス革命を機にユダヤ人は市民権を得て、他国からユダヤ人の移民も増えたという。現在、60万人のユダヤ人がフランスに住んでいるといわれ、フランスはアメリカ、イスラエルに続いて3番目にユダヤ人が多い国となっている。

そのパリであるが、オペラ座の近くに『シナゴーグ‐ドウラ‐ビクトワール』というヨーロッパ最大のシナゴーグがある。外見は近辺の石造りの建物と何ら変わらず、一見シナゴーグであることが判りにくい。しかし、よく観察すると正面玄関の上部にヘブライ語の記述がある。本日は土曜日にてシナゴーグが閉鎖されていたが、警備員によるとその中には大きな礼拝堂があり、金曜日の礼拝には多くのユダヤ人や集まるという。

一方で、私が住んでいるチュニジアのラファイエット地区というところにもシナゴーグがある。この建物は入り口付近が有刺鉄線で囲まれており、大勢の警備員に取り囲まれている。正直、重々しい雰囲気を醸し出していることは否めない。歴史的にはチュニジアにおいては、ユダヤ教徒とイスラム教徒が協力して暮らしていたが、1956年のフランスからの独立により、チュニジアはアラブ諸国の一員として正式にムスリム国家となった。これによりユダヤ人はチュニジアにおいて事実上の部外者となったという。

友人に聞いた話であるが、独立後、ダウンタウンのにあるユダヤ人墓地(私有地)は公共の施設となり、襲撃を受けたこともあったようで、現在は荒れ果てているという。確かに、Kheireddine Pacha通りから墓地を見たが、まったく手入れがされていないという印象を受けた。ユダヤ人は1956年以前には11万人いたが、現在は2千人未満となっており、その多くがイスラエル又はフランスに移民していった。

先週末にチュニジアより南西100KMに位置するテストゥールに訪問した。この街は17世紀においてスペインのアンダルシアから移り住んだ人々が築いた街で有名である。移民した人々は1492年のグラナダ陥落後のキリスト国家になったスペインにおいて、キリスト教に改宗することを拒否したイスラム教徒とユダヤ教徒達である。

テストゥールのモスクを見た際には、ダビデの星のサインが飾られているのには驚いた。これはイスラムとユダヤ教徒の融合の印であるという。かつてチュニジアはイスラム教徒とユダヤ教徒がお互い協調して住んでいたことを表す一例である。テストゥールはコルドバのユダヤ人街に似ているこじんまりした好印象の街であった。

フランスにおいて、ユダヤ教徒とキリスト教徒において問題がないわけではない。しかし、近年のフランスとチュニジアにおいて、ユダヤ人への対応とその歴史は大きく異なるようである。本日はパリにおいて、“美と洗練を誇るパリ”のみではなく、移民、そしてユダヤとムスリムについて考えさせられた日であった。

2013年10月18日金曜日

ベルベル人とフェニキア人の融合(ポエニとは)


日本ではポエニ(英:Punic)とはフェニキア人のことを指すと言われているが、チュニジア人に言わせるとその意味合いは多少異なるようである。ポエニとは、紀元前8世紀前から北アフリカに住んでいたベルベル人と、テユロス(レバノンのスール)から来たフェニキア人の融合した民族、又はその融合した文化を指すようである。

その二つの文化であるが、ギリシャに敗北したヒメラ戦争(紀元前480年)後にその融合が急速に進んだようだ。フェニキア人の神であるバールはベルベル人の神であるアモンと融合し、バールハモン(Baal-Hammon)となり、フェニキア人の女神のアスタルトはベルベルの女神であるタニト(Tanit)と統一していったという。第一次ポエニ戦争が始まる紀元前3世紀頃にはこの二つの民族は完全に一体化していったようだ。

さて、このベルベル人と、フェニキア人の二つの民族の遭遇はどのように起こったのであろうか。昨日、カルタゴにあるローマ住居に訪問した際に年配のガイドより興味深い話を聞いた。

そのローマ住居はカルタゴの大統領官邸と隣接しており、地中海が一望できるロケーションである。そのガイドが、濃い青色に染められた地中海を指さしながら言った。『中東からディドーが大きな船と共に大勢の家来を率いて、両手を広げながら陸に近づいてきた。』これを見たベルベル人は驚愕の眼差しでその船に見入ったという。紀元前814年頃の話である。日本人が、ペリー来航した時の『蒸気船たった四杯で夜も眠れず。』という心境と同じであろうか。または、マヤ人がスペインから来たコルテスを見たときの驚きに似ているのであろうか。

さて、そのガイドによると、フェニキア人とは、旧約聖書に記載されているノアの孫であるカノン(ハモンの息子)であり、ユダヤ人の末裔であるという。そのフェニキアの都市国家テュロス(レバノン)の国王の娘のディドー(幼名エリッサ)は、叔父のシュカイオスと結婚をしていた。しかし、父の死去の際に、兄のピュグマリオーンと彼女が共同で国を治める旨、遺言されたが、兄が王位の独占と叔父の財産を目当てにディドーの夫である叔父シュカイオスを暗殺し、ディドーも暗殺しようとしたという。そのような経緯から、傷心のディドーは全てを投げ捨てて家臣たちと共に航海で出たという。

そして、ディドーがカルタゴに着いた際に、ベルベル人の王様であるイアルバースに土地の分与を申し入れ、イアルバースには牛の皮(ビルサ)1枚で覆える範囲の土地しか譲れないと言われたが、その皮を細かく引き裂いて土地を取り囲み、砦を築くだけの土地を得たという。この土地が現在の『ビルサの丘』である。カルタゴとは『カルト・ハダシュト』のローマ読みであり、フェニキア語で新しい町を意味する。

そのディドーの才能を見たイアルバースは彼女に惚れて求婚した。しかし、亡き夫の死の際に決して再婚しないと誓っていた彼女は申し入れを受け入れられなかった。最終的には、イアルバースとの結婚の準備をするという名目で火葬を準備し、『夫の元に戻る』という言葉を残して、剣で自害し、炎に飛び込んだという。悲しい結末である。

その後、ディドーは神格化され、月の神、又、ある時はアスタルト(女神)として崇められた。フェニキア人にもべルベル人にも愛された存在であったのであろう。その後、ディドーはーベルベル人の神であるタニトに融合され、チュニジアの文化に深く刻まれているようである。

昨日は犠牲祭(イード)の為、休日であったが、日本から両親が来て、妻、娘も含めて3世代によるチュニジア見物となった。フランス語と英語が混じったガイドの1時間以上にも及ぶ演説は聞きごたえがあった。日本への土産話に相応しいメロドラマティックなストーリーであり、年老いた両親が大喜びをして聞いていたのが嬉しかった。

【参考資料】
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%AB%E3%83%88
http://www.thaliatook.com/OGOD/tanit.html
http://en.wikipedia.org/wiki/Berber_mythology
http://en.wikipedia.org/wiki/Canaan_(son_of_Ham)
http://en.wikipedia.org/wiki/Dido_(Queen_of_Carthage)