カルタゴの建国は紀元前814年である。そして、このフェニキア人による国家は瞬く間に、東はシドラ湾(リビア)から、西はスペイン海岸、パレアレス諸島、サルデニア島、シチリア島を含む地中海全域を支配下に収めた。その統治スタイルは武力で制圧をすることを好まず、商業と文化、そして外交の力で推し進められたと言われている。自国の民衆に対しても寛大な自治権を与えていたようだ。
その栄華を咲かせたカルタゴであるがあまり資料が残されていない。紀元前146年のカルタゴの滅亡と共にローマ帝国に全て焼き払われた為である。また、このフェニキア人の町は徹底的に破壊され、その上にローマ、ビザンチン帝国による都市に塗り替えられていった。
その栄華を咲かせたカルタゴであるがあまり資料が残されていない。紀元前146年のカルタゴの滅亡と共にローマ帝国に全て焼き払われた為である。また、このフェニキア人の町は徹底的に破壊され、その上にローマ、ビザンチン帝国による都市に塗り替えられていった。
しかし、わずかであるがその痕跡は残されているようだ。カルタゴの海岸沿いにあるマゴン地区や、サラムボ地区にある遺跡にはポエニ時代の面影を垣間見れることができる。トフェの墓場には『タニト女神』と、『バール・ハモン神』というふたつの最高神が祀られている。更に、ボン岬半島にあるケルクアンもその痕跡が残されている数少ない場所である。
ケルクアンは紀元前255の第1次ポエニ戦争時にローマ帝国に破壊された後、(他の都市とは異なり)、ローマ人によって定住が行われず放置されていた。従い、幸いにもポエニ文化の遺跡が残されており、これが当時のフェニキア人の町や住居を知るうえで大変貴重な情報源となっている。
先週末にそのボン岬のケルクアンに行ってきた。ボン岬は首都のチュニスの南東に地中海に突き出している半島であり、実りある豊かな穀倉地帯と自然に恵まれた美しい景観から、古代ローマ人から『最も美しい
実際に車で半島を一周をしてみたが(右記の赤線がそのルート)、その美しさに感動したと共に、肥沃な土地であることを再認識した。春の訪れとともに緑が深くなってきており、通り道沿いにあるブドウ(ワイン)畑、オリーブ畑、牧場、そして野菜農場は心が洗われる風景ばかりであった。チュニス郊外を朝9時に出発し、ナブール、ケロアン、ケルクアンを回っても夕方の6時に戻れたので、こんなに近くて素晴らしい場所があるのであれば、もっと早く行けば良かったと思ったほどである。
ケルクアン住宅地域の全体像 |
第1次ポエニ戦争前(BC255)頃に 建設された北の塔 |
訪問したケルクアンの住宅地域は東京ドーム約2個分(約9Ha)の大きさであろうか。現在の住居は土台のみであるが、街路が整理されており、区画整理されている町であることがすぐにわかる。また、この海に面している町は2重の外壁で囲われていたようであり、その外壁の工事並びに北の塔の建設は紀元前255年の第1次ポエニ戦争の前に行われたようだ。 ローマ人の襲撃から防衛する為に準備がされたということであろう。
家の浴槽 |
『タニト』を示した住宅の床 |
ケルクアンは紀元前255年の第1次ポエニ戦争時に破壊され、その後都市自身が消滅している。首都のカルタゴは、第3次ポエニ戦争(BC149~BC146)後、徹底的に破壊され、生き残った5万人のカルタゴ人捕虜は全員奴隷となった。カルタゴに永遠に人も住めず作物をできないように塩がまかれた話は有名である。
その後、ローマ帝国によりカルタゴの首都は再建された。しかしその支配下を経て、現在に至るまで女神『タニト』によるカルタゴの“怨念”が生き残っているということであろうか。やはり女神は怒らせてはいけない。ローマ帝国もその力には及ばなかったようだ。
【参考資料】
Kerkouane、 M’hamed Hassine Fantar
Histoire de La Tunisie、Habib Boulares
地球の歩き方 チュニジア
http://en.wikipedia.org/wiki/Tanit
Kerkouane、 M’hamed Hassine Fantar
Histoire de La Tunisie、Habib Boulares
地球の歩き方 チュニジア
http://en.wikipedia.org/wiki/Tanit
ボン岬にある牧場の風景 |
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