ユリウス・カエサル (BC100~BC44) |
そのカルタゴの再建について歴史を振り返ってみたい。
カルタゴの再建はBC44に『ユリウス・カエサル』によって決定される。塩野七生が著した『ローマから日本が見える』によると、カエサルの植民都市(コローニア)の建設に対する考え方はある思想に基づいていたようだ。
カエサルが現れる前のローマの定義とは、かつての都市国家ローマの延長にすぎず、視野を広げてもイタリアの半島を超えることはなかった。あくまでイタリア以外の領土は支配の対象としか見ていなかったという。
しかし、カエサルはその概念を根底から覆した。カエサルにとっては“国境”という概念はなく、彼はローマの支配下の地はすべてローマ帝国の一部とみなしたという。カエサルは、ガリアや北イタリアにとどまらず、スペインの原住民の有力者にも『ローマ市民権』を与え、そして、8万人ものローマ市民を属州(欧州)に送り込み、『植民都市(コローニア)』を建設することによって、ローマへの同化、つまり、運命共同体の政策をとったという。ローマは徐々に市民権を拡大し、最終的には解放奴隷にも与えたという。
カエサルはまもなくブルータスに暗殺された為、実際にはカルタゴの再建設はカエサルの養子であるアウグストゥスによって実施される。紀元前29年にアウグストゥスはローマの都市計画に沿った植民地を、ポエニ戦争で崩壊したカルタゴの都市の上に建設する。そして、カエサルの『国境なきローマ』の思想はアウグストゥスに継承され、『パクス・ロマーナ(ローマの平和)』の基盤を築いていった。
アドリアン時代(AD117~138)の ローマ帝国の街道 |
2世紀になると、大規模なインフラの建設が行われる。ポエニ時代のカルタゴの軍港は、ローマ時代になり輸出港に変貌を遂げる。北アフリカの穀物の生産量は100万トンと言われ、その1/4がこの輸出港からヨーロッパに出荷されたという。その他、オリーブ、豆、ブドウやイチジク等の果物が輸出された。ローマ時代の北アフリカは農業を中心とした豊かな属州であったようだ。アントニヌス帝の公衆浴場をはじめとした水道事業が行われたのもこの頃である。
北アフリカのローマ属州 |
ローマ劇場 |
標高600mの丘の上の穏やかな気候の中で、この都市を探索しているとかつてのローマ帝国の都市における人々の生活が想像することができる。人々はモザイクで装飾された住宅に住み、多神教の神殿で祈り、共同浴場で体を清め、劇場や闘技場において娯楽を楽しんだに違いない。
フォルム |
上記の写真はフォルム(集会場)であるが、これはローマ帝国の都市の証である。ここは商業活動、政治・司法の集会、宗教儀式、その他の社会活動が行われる市民生活の上で最も重要なオープン・スペースであった。ここでは喧々諤々様々な議論が行われたのであろう。ローマ帝国においては市民は主権者であり、この市民を主権者とする思想は今日の民主主義における基盤となっている。
かつてのチュニジアには様々な民族の多様性、考え方、宗教を認めながら議論を進めていた土壌が存在した。フォルムの周辺を歩きながら、岐路に立たされているチュニジアの目指す姿が過去の自分達にあるのではないかと思った次第である。
【参考資料】
『ローマから日本が見える』、塩野七生
DUGGA,Mustapha Khanoussi
http://www.ushistory.org/civ/6a.asp
http://www.unrv.com/provinces/africa.php
http://en.wikipedia.org/wiki/Dougga
http://en.wikipedia.org/wiki/Julius_Caesar
http://en.wikipedia.org/wiki/Roman_Empire
http://en.wikipedia.org/wiki/Africa_(Roman_province)
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