2013年2月14日木曜日

日本人が『フォークランド紛争』から学ぶこと


多国籍企業や国際機関で働く醍醐味とは、様々な国の出身の同僚や顧客と出会うことであろう。時には、日本人同士で分かり合える阿吽の呼吸が通じなかったり、当たり前であると思っていた常識が異なったりして戸惑うこともあるが、しかし、それ以上に、新しい知識や、新鮮な考え方やに出会える素晴らしさがある。

本日はイギリス人の同僚と昼食と食後のコーヒーを飲みながら、面白い話をしたので、忘れないうちに紹介したい。彼は私より10歳以上年上であり、深い造詣と知識を持ち合わせており、尊敬をしている友人である。共にアフリカにおける代替エネルギーのプロジェクトを行っているが、最近はお互い冗談を言い合うほど気を許す間柄になりつつある。

まず、昨今のチュニジアやアルジェリアにおけるイスラム過激派の動きに始まって、尖閣諸島や竹島を象徴とした日本の地政学的な話題になった。彼曰く、現在、世界情勢は日々変化しており、唯一のスーパーパワーであるアメリカの立場も変化しつつあり、イギリスも日本も独自の道を歩むべく、時代の流れを読む必要性があると説いていた。イギリスにおいては、軍隊の仮想敵国が未だに冷戦時代のソ連から抜け出せないメンタリティーが残っており、新たな世界秩序に対応をしていないことを嘆いていた。

そのような状況を変えるためには、イギリスも日本も新たな時代に向けて、軍事力のみならずソフトパワーを身につける必要があるという。特に目まぐるしく変化している北アフリカや中東をはじめとする国際政治の重要地域の専門家を育てたり、その専門家に若いうちから言語や文化に親しませることは極めて大切であるという。それが故にイギリスにおいては007で有名なM16と呼ばれる諜報機関が存在し、各地域における情報収集に努めたり、その専門家を育てていると力説していた。

その後、フォークランド紛争(西:マルビナス戦争)の話題になった。フォークランド紛争は1982年の3ヶ月間に渡ってイギリスとアルゼンチンの間に起こった戦争である。この戦争は、子供の頃、兄が中学校の夏休みの自由研究で扱ったテーマなので、私も何となく覚えている。又、学生時代のゼミの教授がアルゼンチンの専門家であり、ペロン政権の左翼・ポピュリズム政治から、1976年のクーデーターによって、ホルヘ・ビデラ並びにレオポルド・ガルチェリの軍事政権に移行した時代背景について学んだことを思い出した。

同僚によると、イギリス政府は紛争が起こる前に、フォークランド諸島における潜水艦等の主要な軍備を撤去しており、これが故に戦争が起きたと指摘している。つまり、抑止力がなかったのが最大の原因であるという。アルゼンチンの軍事政権は、経済の低迷から民衆の不満をそらすために軍事行動を起こしたが、この動きをイギリス諜報機関が読めず、アルゼンチンの軍事政権を過小評価していたのも戦争の要因になったようだ。最終的にこの戦争でイギリス軍は派遣した多数の艦船と乗組員を失った。何とか揚陸作戦を成功させたことにより、最終的に勝利を収めることが出来たということである。

ここで、真面目な話だけで終わらないところがイギリス人である。このイギリスから遥か遠い南米の島に軍隊を派遣することについて、英国内では否定的な意見が多かったという。しかし、最終的にこの戦争を決意したのが“鉄の女”マーガレットサッチャーである。『この内閣には男が一人しかいないか!?』と一喝したことによって、イギリス政府は渋々戦争に踏み切ったという。また、同僚は、如何にサッチャー独裁的首相であったか、それにまつわるジョークを紹介してくれた。本当かどうか判らないが、閣僚を野菜と勘違いするほどの独裁ぶりであったという。

サッチャー首相がレストランで閣僚と食事をしている際、
Waitress: Would you like to order, sir?
Thatcher: Yes. I will have the steak.
Waitress: And what about the Vegetables?
Thatcher: Oh, they'll [The Cabinet] have the same as me!

これは時のサッチャーが如何に肉食的(男性的)で、閣僚が草食的(女性的)であったかを比喩している。

また、戦争後の、フォークランド諸島は酷い下痢が蔓延したという。これをイギリス人は『ガルチェリによる復讐の下痢(Diarrhea, Galtieri's revenge)』と呼んでいるという。同僚が腹を抱えながら笑っていたのが滑稽であった。

以前、通信の仕事をしていたが、世界で活躍しているイギリス人の何人かに会った事がある。植民地や離島で働いていたイギリス人はケーブル&ワイアレス(C&W)に勤務していた人が多かった。香港における衛星会社の社長はC&Wの出身であった。香港テレコム(PCCW)の当初の名前は『Cable & Wireless HKT Limited』と呼ばれ、イギリスの植民地時代に設立された会社である。またオランダの衛星会社に勤めていた運用責任者もC&W出身であった。ハーグで食事をした際、同氏が若い頃にフォークランド諸島に駐在した際の苦労話をしていたのを覚えている。

ちなみに、金融やエネルギーの世界でも多くのイギリス人が活躍している。かつて勤めた外資系のエネルギー会社の上司もイギリス人であった。彼らのプロジェクトに対する洞察力は鋭い。彼らはリスクに対して敏感であるが、ある時はリスクをチャンスと見て、大胆にそのリスクを取ろうとする。イギリス人はリスクとチャンスが表裏一体であることをそのDNAに染み込ませているのだろうか。これは大英帝国時代における世界中の植民地支配から、国際情勢に合わせて、失敗をしつつもも、柔軟に生きてきた証かもしれない。イギリス人から学ぶことは多いと思った。

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