2013年2月11日月曜日

『世俗主義』か『イスラム主義』か


 『世俗主義』か、『イスラム主義』か。この選択が現在、チュニジアにおいて国民を大きく揺るがしている問題ではなかろうか。この問題はアルジェリア、エジプトやその他のイスラム諸国においても同様であると思われる。

ショクリ・ベルイード氏が暗殺された理由も、同氏がチュニジアのイスラム傾倒化を批判していたことに起因するのかもしれない。同氏は、イスラム過激派(サラフィスト)の数々の犯罪に対して、アンナハダが厳格な処置を怠っているという批判を繰り返していた。複数のメディアによると、その批判により、同氏は数々の脅迫を受けていたと家族が明かしているそうだ。

現在、新憲法においてもこの問題が注目されている。今のところ、憲法草案の準備委員会はイスラム法(シャリア)の位置づけを憲法に含むことを回避しており、エジプトで起こっているような基本的な法律に対する混乱には至っていない。しかし、世俗派はチュニジアの政治がイスラム主義者たちによってシャリア重視の憲法草案に傾き、人権や男女平等が保証されなくなることを懸念している。

それでは、一体、イスラム法に基づくこの人権や男女不平等の考え方とはどのようなものであろうか。

まず、イスラム教の聖典『コーラン』では、女性は男性より劣位にあり、保護されるべき存在であるとされている。そのため家族においては低い地位が定められ、弱い女性を保護するという目的で一夫多妻制ができたという。また、女性は男性を誘惑するものとされたため、その害悪を予防するためにヒジャブやブルカに代表される種々の男女隔離の習慣ができたとのことである。これらにより、一夫多妻制、結婚、離婚、暴力等に関する様々な女性に対する差別がイスラム諸国において発生している。実際にイスラム諸国において、女性差別撤廃が進まない理由として、イスラム諸国がイスラム法を理由として差別撤廃を留保している為である。

次に、チュニジアにおける、この『世俗主義』と、『イスラム主義』の歴史を振り返ってみたい。

イスラム教は、7世紀、アラブの軍隊が北アフリカを制圧した際に広がったといわれる。その後チュニスやケロアンの都市はイスラム教における教育の中心となった。一方で世俗主義は1881年のフランスの植民地時代からもたらされ、社会おいてもその考え方が導入された。

1956年チュニジアの独立後、世俗主義の考えはハビブ·ブルギバ大統領によって強化される。同大統領はイスラムの伝統がチュニジアの近代化を妨げていると考えており、30年間に及ぶ統治下において、家庭や、公共における新たな政令を導入した。それは主要な分野における男女の平等権利の確立、ヒジャブの制限、イスラム学校やイスラム裁判所の閉鎖等であるという。1987年以降のベンアリ政権が誕生すると、イスラム教徒に対して弾圧が加えられる。1989年においてアンナハダが選挙で多数の票を獲得した後、何千ものイスラム教徒が投獄された。イスラム派の動きが社会に対する脅威であるとの理由からである。ベンアリ統治下ではヒジャブに対する更なる制限や、公共の場におけるお祈りが禁止された。同僚の話によると、ベンアリ政権においては、モスクでのお祈り時にはイマーム(導師)がベンアリを崇拝するように説いていたという。

このヒジャブ着用禁止令は、2011年1月のジャスミン革命直後に撤廃されたという。実際、私がチュニジアに住み始めてからのこの一年以上の間においても、ヒジャブを纏う女性が増えてきているという印象を受ける。更に、サラフィストによりアルコールを扱っている店を襲撃しているような事態が地方において頻繁に起こっているが、アンナハダはサラフィストに対して取り締まりを強化していないように映る。現在、ベンアリ政権下における世俗的な支配から揺れ戻しが来ているのは否めないだろう。

宗教の問題は正直、複雑で解りにくい。しかし、基本的な人権は性別に関わらず普遍的なものであるべきと思っている。チュニジアは女性による高等教育の進出が男性を上回っているように、男女平等の確立に注力してきた。失業率が多く、就職が困難にも関わらず、私が知っているだけでも多くの女性の医者、弁護士、エンジニアが社会進出をしている。男女の平等が保証されない社会には断固反対である。

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