2013年2月16日土曜日

モロッコに想いを馳せて2(チュジニアより)

現在の私のマイブームはモロッコである。これは以前のブログで紹介したが、22年前にスペインからモロッコに訪問することに失敗し、先週もモロッコへの出張が延期された為、想いが募っている事に他ならない。現在、私の中ではモロッコのポジティブなイメージが拡大しているのである。モロッコは、チュニジアや他のアラブ諸国とは異なる独自の文化を持ち、開放された国に違いない。

実際にモロッコ人に聞くところのよると、モロッコではお祈りはするが、人生を楽しむ事は悪い事と考えていないようだ。ここでモロッコのその開放性や独自性の背景と思われる内容をいくつか挙げたいと思う。この話は本日、モロッコ人の同僚と、昼飯を共にしながら、議論した内容なので、私の思いこみではない事を予めお伝えしておく。

まず民族であるが、モロッコは7世紀によるアラブによる征服後、イスラム教化は進んだものもの、現在でも、40%の国民がベルベル系(他説では50%程度)とされ、3割近くの国民がベルベル語を話すという。比較的、アラブ文化以前の独自の習慣が残されているといえよう。一方でチュニジアは過去の歴史により様々な民族に支配されてきたが、7世紀のアラブによる征服以降は住民の混血化が進んできた。その結果チュニジアでは98%はアラブ系とされており、ベルベル人の人口は1%に過ぎない。

多様性という意味では、1492年のイスラム王朝の『グラナダ陥落』の際は、ベルベル人やユダヤ人が、スペインからモロッコに避難し、これにより独自の音楽や文化がもたらされたという。実際、同僚のモロッコ人の友人に、『Tolerado』や、『Cohen』等のスペイン系やユダヤ系の苗字を持っている人がいるというから興味深い。また、言語もアラビア語であるが標準的なアラビア語とは異なり、独自の方言であるという。単語もあらゆる地域の言葉が混ざっているという。モロッコのアラビア語では靴の事を『Zapat』という。これはスペイン語の靴を意味する『Zapato』から来ている。また、週の事は『Semana』という。これはスペイン語と全く同じである。同僚がエジプト人に『Semana』と言っても全く通じなかったというのは当然であろう。しかし、殆どのモロッコ人は『Semana』がスペイン語から来ていることすら知らないようだ。


歴史的には、1574年から約300年の間、チュニジアがオスマン帝国の影響下にあったのに対して、モロッコは一部の地域を除いてオスマン帝国の属国又は影響化に置かれなかったようだ。モロッコはアルジェリアまで進出したオスマン帝国を退け、キリスト教徒との戦いでもポルトガル軍を破ったり、独立的な機運が強かったようだ。同僚によるとこのオスマン帝国時代の300年の違いがチュニジアとは食生活等の文化面で大きく分かれた理由であるという。

また、19世紀のフランス帝国主義の影響化において、アルジェリアがフランスの『植民地』だったのに対して、モロッコやチュニジアは『保護領』であった事も大きな影響を及ぼしたという。この統治の方式によってモロッコの王朝は存続した。20世紀の独立運動の際には、リビアのカダフィーや、エジプトのナサール、チュニジアのブルギバが王政を打倒したが、モロッコやシリアにおいては王朝は継続された。これが最終的にイスラム教とは別に、人々の心の拠り所として存在しているのは事実であろう。


更に、北部リーフ地域や現在の西サハラはスペイン領土になったことも、近代においてモロッコがフランスの影響のみならずスペインの影響も受けた多様性に繫がっている。タンジェはその都市がドイツとフランスの争いの場になったことから、1923年に『国際管理地域』となり、様々な外交官や、ビジネスマンが集まる国際的な都市になり、これもモロッコの国際的な国の特徴の一つとなっている。

最後に、近年ではモロッコが近代化し、人々が開放されている理由は、経済の市場開放であるという。モロッコは早くからIMFの管理化に置かれ、現在では欧州、米国、トルコ、エジプトと自由貿易協定を結んでいる。これらの市場開放によって、人々の生活様式等が変わりつつあるようである。『市場経済主義』はイスラム教徒の行動も変えるほど影響力が強いという事なのであろうか。

実は22年前の失敗から学び、禁酒していた甲斐あって、来週ようやくモロッコに出張できそうである。モロッコとは実際にどのような国なのであろうか。自分の目で確かめたいと思っている。禁酒はモロッコに着いてから解禁しようと思う。

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